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【禅語】 魚行きて水濁る - 人にバレなければいいのか? -

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【禅語】魚行きて水濁る(うおゆきてみずにごる)

魚が水のなかを静かに泳ぐ。
すると水が揺れて、底の土が僅かに舞う。
だから魚の姿が見えなくても、土でかすかに濁った水があれば、その場に魚がいたことがわかってしまう。
事実は消せないという意味の禅語である。


世に悪事は絶えない。
欲望は底が知れない。
たぶん、どこまでも沈み込んで、欲望に底などないのだと思う。
罪を犯す人は、その行為が誰にもばれないことを前提に悪事をはたらくのだろうか。
悪事が明るみに出なければ、自分が不利益をこうむることはない
そう高をくくって。


実際、誰にもバレなかったとする。
警察にも捕まらなかった。
隠し通すことができた。
しかしそうであったとしても、その事実を知っている人はちゃんといる。
自分だ。
この自分だけは、自分のなしてきた行いを知っている。
人生にどんな足跡を残してきたのかを、逐一すべて見てきている。
誰に知られなくても、自分は自分が卑怯な人間であることを知ってしまっているのである。
この隠しようのない自分を、罪を犯した人は一体どうするつもりなのだろうか。

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中国の故事である「四知(しち)」にも、この禅語に似た見識がある。
昔、中国に楊震(ようしん)という地方長官がいた。
ある夜、一人の役人が多額の金を懐に入れて楊震を訪ね、密かに賄賂を渡そうとした。
しかし清廉な楊震はその申し出を断固として拒否。
「あなたは悪事がバレないように人目を忍んで夜にやってきたのだろうが、誰も知らないように思えても『天の神・地の神・私・あなた』の四者は賄賂の事実を知っている」
と諭し、役人を戒めた。
これが「四知」という言葉の意味である。


私は四知のなかに、悪事をなした「本人」が含まれていることが、やはり重要なことだと思えてならない。
人は自分の人生を、自分で生きている。
当たり前のことである。
ただこれが当たり前だというのなら、この自分の人生に意味を与えるのも自分でなければおかしいだろう。
人にバレるからダメなのではなく、自分にバレるからダメでなくて、どうして自分の人生を自分で生きていると言えるだろうか


人にバレなければいい。
そう考えるということはつまり、自分の人生の価値も善悪も意味も、何一つ自分で判断できないことと等しい
善悪について自分の頭で考えることなく生きれば、悪事をなしても悔いを抱くことはないのかもしれない。
善悪について何も知らないまま、何にも気付かないままに人生を終える。
それを貧しい精神の人生と言わずして、何というのだろう。


事実は消えない。
どこにも証拠が残っていなくても、事実は世界に一つしかないのだから、事実は事実として残り続ける。
砂浜に残した足跡のように、波が打ち寄せれば消えるような、時間が経てば消えるようなものではない。
それはあたかも、固まる前のコンクリートを歩いてしまったかのように、いつまでも心に跡をとどめて消し去ることができないもの。
たとえ誰もその事実を知らなかったとしても、事実は事実として、自分の心に残り続けていく