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【禅語】 中道 - 苦にも楽にも偏らない道、真ん中という生き方 -

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【禅語】中道(ちゅうどう)

「どこで修行をしたのですか?」
と訊ねられて、
永平寺です」
と答えると、
「ああ、あの厳しいところね」
というような反応が返ってくることが多い。これはもう、皆さん相当なにかすり込まれているのではないかと疑うほど、同じようなイメージを抱いていらっしゃるようで驚く。


厳しい……と言えば確かに厳しいけれど、別に厳しいことが修行ではないんだけどなあ。
心の中で独り言を呟きつつ、そんな話をしても水をさすだけだろうと堪えて、それ以上口にすることはない。
ただ、禅における修行とは、必ずしも厳しさのなかにあるものではないということを知っておくと、禅や仏教というものの基本的な考え方が理解しやすいのではないかなあと、常々思っている。


ブッダの苦悩と出家

仏教を説いたブッダは、もともとシャカ国の王子であった。城での暮らしは何不自由することのないもので、裕福な生活をしていた。まあ、一国の王子なのだから当然のことだろうが。
しかし、ブッダは城の門を出て城外の人々の暮らしを見て回るうちに、そのような享楽的な生活に虚しさを覚えるようになった。


ブッダはそこで何を見たのか? 老いて、病んで、死んでいく人を見たのである。
そして、どれだけ贅沢をしようと、人はやがて老いて、病んで、死んでしまうという事実から逃れることができないことを知り、愕然とし、浮かれた心になどなれなくなってしまったのだった。


贅沢をして生きて、一時的に苦悩を忘れることができたとしても、結局この苦悩から抜け出すことはできない。
それならいっそのこと、人生について考えることをせずに享楽的に生きるのではなく、老いて、病んで、死ぬ定めであるところのこの人生とは何なのか、それを明らかにするために生きたほうが賢明なのではないか。そのほうがずっと豊かな人生となり、心安らかに生きることができるはずだ。
ブッダはいつしかそう考えるようになり、29歳の時、城を抜け出して出家したのだった。


出家をしたブッダは2人のヨーガの師に教えを乞うのであったが、その技法をマスターしても心の安らぎは得られなかった。
問題の根本的な解決には至らなかった。
そこで次に苦行によって心の平安を得ようとした。


当時のインドには、苦しみが生まれる原因は肉体にあり、肉体を痛めつけて弱らせることで心が肉体から解放されるという考え方があったからである。
しかし、どれだけ苛烈な苦行に身を投じても、心の平安は得られなかった。それどころかブッダの体は徐々に痩せこけていき、やがて骨と皮だけになるほどまでに衰弱していったのである。


ブッダはそのような苦行を6年も続けたが、死の淵にまで自分を追い詰めても心の平穏を得られなかった。
そこでようやく苦行に見切りをつけ、近くの川でぼろぼろになった体を洗い、川のほとりにそびえ立つ菩提樹の下で静かに坐禅をはじめた。
そして坐禅をはじめてから8日目の明けの空に輝く星を見て、ついに悟りを開いたのであった。

中道とは偏らないこと

このブッダの人生こそが、中道という考え方そのものを表している。
中道とは「偏らない道」という意味であり、ブッダの人生でいえば、享楽と苦行とのどちらにも偏らない生き方を指すものである。つまり、菩提樹の下で坐禅をするという生き方が、ブッダの人生において中道だったわけである。
城での享楽的な暮らしと、出家してから苦行に打ち込んだ暮らしとの、どちらに偏っていても安らかな心ではいられなかった。
そこで偏りを離れて、心をニュートラル、真ん中に据えることでブッダは心の平安を得たのだった。


両極端を離れて静かに坐り、自分の心を水鏡のように穏やかなものへと整える。
整えることができたら、今度は整え続ける
その心を常に維持できるように努め、日々の生活を送る。
それが禅の修行。だから特別なことが修行なのではない。


外界からの刺激によって乱れがちな心を、不断に整え続ける。それが禅の修行の根本である。
そこに苦行は必要でない。歯を食いしばっていたら、心の水鏡に不穏な振動が伝わってさざ波立ってしまうことだろうから。


だから禅の修行に難しいことは何もない。普段の生活を、「整える」という意識でもって行うだけだからである。誰にでもできる簡単なことばかり。
ただ、その簡単なことを持続させることは、じつは簡単なことではない。だから修行は難しくはないが、簡単なことでもないのである。


ちなみに、永平寺では修行という言葉をあまり使わない。代わりに「行持(ぎょうじ)」という言葉を使う。「修行の持続」を縮めて行持。
難しいのは修行ではなくて、心を整えるという修行を、不断にずっと続けていくこと
そんな意味を含んだ禅の言葉であるが、なるほど確かに禅の確信を突いた言葉であるように思う。
中道を歩み、行持として歩む。それが苦にも楽にも偏らない生き方といえるだろうか。


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