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鳥窠道林と白居易との名問答 「諸悪莫作 衆善奉行」【禅僧の逸話】

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鳥窠道林と白居易との名問答

8世紀から9世紀を生きた中国の禅僧に鳥窠道林(ちょうか・どうりん)がいる。
鳥窠という名前の意味は、じつは「鳥の巣」。
なぜ鳥の巣などと呼ばれていたかというと、この禅師なんとも不思議なことに、毎日松の木の上で坐禅をしていたという伝説が残っているのである。
まるで鳥のように木の上で坐禅をし、巣を作っているかのように見えたために、鳥窠という名前で呼ばれるようになったというわけだ。
そんなことあるの!? というような驚きのネーミング。


しかしよりにもよって、なぜ木の上などという不安定な場所で坐禅をしていたのか。
そこのところはよくわからないが、とにかくそのようなユニークな伝説を持つ道林禅師には、非常に面白い問答の逸話が現代に伝わっている。
詩人であり禅についても明るかった白居易(はっきょい)(白楽天と呼ばれることもある)と交わした有名な問答だ
諸悪莫作(しょあくまくさ)の話」とも称される問答の内容を以下にご紹介しよう。


鳥窠道林と白居易

白居易は幼少から聡明な子どもであった。
特に優れていたのが詩で、白居易が残した詩は把握されているものだけでも4000首近く存在するという。
中国のみならず、日本でも白居易の詩は人気が高いのだとか。
唐代を代表する詩人として、白居易は歴史にその名を残している。


そんな白居易は、その優れた頭脳で国の役人となり、高級官僚というエリート人生を歩んでいた。
しかし50歳のころに失脚して地方の杭州へ赴任することになる。
杭州の新たな長官(今でいう県知事のようなもの)となった白居易は、この杭州の地に、木の上で坐禅ばかりする名物禅僧がいるということを知って、一度会って話をしてみたいと思うようになった。
「諸作莫作の話」は、こうして白居易が道林禅師のもとを訪ねた際に交わされた問答をもとに生まれた


さて、白居易はある日、かねてから興味を抱いていた道林禅師のもとを尋ねてみることにした。
道林禅師が坐禅をしているという、例の松の木の下までやってくると、白居易は上を見上げた。
すると驚いたことに、道林禅師が本当に木の上で坐禅をしているではないか。
「和尚さん、そんなところで坐禅をしていては危ないのではないですか?」
「ワシには、あなたのほうが危険に見えるが」
「私はこの度新しく杭州の長官として赴任してきた白居易です。この辺りはすべて私が治めています。何の危険があるというのでしょうか」
薪を燃やすかのように、煩悩の炎が燃えあがっておる。どうして危険がないなどということが言えるのか


一本取られた形となった白居易は、それならとばかりに道林禅師に尋ねた。
「和尚さんは仏教の要とは何だと思いますか?」
諸々の悪を行わず、善を行うこと
白居易は道林禅師の答えを聞いて、単純な答えだと思った。
「そんなことは3歳の子どもでも知っていますよ」
すると道林和尚は平然とこう続けた。
確かに3歳の子どもでも仏教の道理は知っている。しかし、80年生きた老人であっても、この道理に沿って生きることは難しい
白居易は道林禅師の言葉を聞いて、自らの至らなさを瞬時に悟った。そして深々と道林禅師に礼拝すると、踵を返して去って行った。


これが道林和尚と白楽天の間に交わされたという有名な問答の概要である。
「諸々の悪を行わず、善を行うこと」
という部分の原文は
諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)」
であり、この答えから「諸悪莫作の話」などと呼ばれたりもする。



諸悪莫作とは何か

この問答の面白いところは、知識レベルとしての仏教の要を尋ねた白居易に対し、行動レベルの答えを返した道林禅師の機転だろう
何が重要かと白居易は訊いたのであるが、道林禅師は何を行うかを答えたわけである。
知っていようとも、していないのでは意味がない。
重要なのは知ることではなくて行うことであると、道林禅師は白居易の姿勢そのものを覆す答えを呈した。
それが伝わったからこそ、白居易は最後に礼拝をして道林禅師のもとを辞去している。
後世に残るだけあって、確かに面白い問答だと思う。


この問答では諸悪莫作という言葉の詳細な意味については触れられていない。
ごく普通に、
「諸々の悪を行わず、善を行うこと」
という解釈で問題ないものと思われる。
要点は諸悪莫作の解釈ではなく、知識か実行かという点であるから、まあ解釈にうるさくしなくても問題はない。


ただ、じつはこの諸悪莫作という言葉にはいくつかの解釈がある。
普通に読めば、これは
「悪事をはたらいてはいけない」
という意味の、禁止の言葉に読める。


しかし、悪事をはたらいてはいけないから悪事をはたらかない、というのでは、法律があるから犯罪をしないというような、法律がなければ犯罪をするのかという一抹の疑問が残る。
だから禅ではこれを一歩踏み込んで解釈し、
「悪事をはたらかない」
という、ただの否定と考えたりする。
いけないからしないのではなく、したくないからしないというわけだ。
これは、外に存在するルールに従って行動するのではなく、自分の内に存在する精神に基づいて行動を決めるという意味でもある
他律なのか、それとも自律なのか。禅はもちろん、自律の世界。


さらに、もう一歩踏み込んで解釈することもあり、
悪事をはたらくなどできるはずもない
と捉えることもある。
このあたりの事柄については以前にも書いたので下の記事を参考にしていただきたい。

www.zen-essay.com

まあとにかく、行動は日々続けると習慣になる。
はじめは「善いことをしよう」と思ってしていたことでも、やがてそれが習慣となり当たり前のことになると、「善いことをしよう」などと思うまでもなく行動が善いものになることがある


善いこと、などというと大袈裟に聞こえるかもしれない。
たとえば、寝る前には歯を磨く。
子どもの頃は、親から歯を磨かなければいけないと言われて嫌々歯磨きをしていたものだが、習慣とは恐ろしいもので、毎日寝る前に歯磨きをしていたら、もはや歯磨きをしないで寝るなどということに違和感を覚えるようになってしまった。
当然のごとく歯磨きをするようになった。つまり、習慣となってしまっているのである。
歯磨きをしないなど、できるはずもない
悪事をはたらくなど、できるはずもない
という境地は、こうして生まれるというわけだ。


鳥窠道林禅師と白居易の問答にはこのあたりの話は出てこないが、これはこれで大事な解釈であることも間違いない。
解釈についても知っておくと、この問答はさらに面白いものになるだろう
しかしなんとも、非常に示唆に富んだ味わい深い問答だ。