禅の視点 - life -

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【禅語】 鳥啼いて山更に幽なり ~静けさを破ることで際立つ静けさ~

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【禅語】鳥啼いて山更に幽なり

風がやみ、木の葉が擦れ合うかすかな音さも聞こえない深い森。
その森から一羽のカラスが鳴き声を上げながら飛び立つ。
途端に静寂が破られて、辺りに鳴き声がこだまする。
カラスが次第に遠ざかるにつれて、鳴き声の余韻も散じるように空に消え入り、山は再び静けさを取り戻す。
もとに戻る。
しかしその静けさは、なぜか以前より更に静寂で幽玄なものに感じられる
鳥啼(な)いて山更(さら)に幽(しずか)なり」という禅語は、そんな静けさの妙を主題にした言葉である。



静寂を破る音が存在することで、かえって静寂が引き立つということは、なるほど確かに理解できる。
この禅語を知った時、真っ先に脳裏に浮かんだのは芭蕉の名句だった。
俳句の代名詞とも言えるほどに人口に膾炙する「古池や蛙飛び込む水の音」の名句も、この「鳥啼いて山更に幽なり」という禅語と同じような境地を詠んだものではないのだろうか。
静寂の世界で蛙が動き、突如水の音が生まれて静寂が破られる。
しかしそれにより一層際立つ静けさ
この句からは、侘しさ寂しさが滲み出るような情景をありありと思い浮かべることができる


静かとは、騒がしさが存在することによってはじめて「静か」という意味を獲得できる。
だからもし世界に音が存在しなかったとしたなら、その世界には「静か」という概念すらなく、世界をあえて静かと表現することもなかっただろう。
相対的であることによって、「静か」は「静か」に成り得る
「静」と「動」は相反する事柄のようでいて、その実、互いを補い互いを強調する働きを有しているのである。
静中の動、動中の静、というべきところか。


考えてみれば、人間が認識する物事はほとんどすべてそういった種類のものなのかもしれない。
相対的であることによってはじめて意味を持つものがほとんどで、絶対的なものなんてごくわずか。
幸せも不幸せがなければわからず、好きも嫌いがなければわからず、自由も不自由がなければわからない
失ってみて初めてわかる、という心境をたまに耳にするが、相対の世界を生きるならば真実を言い当てた言葉に違いないだろう。
「失う」もまた相対的な観念であるから、その対極にある「得る」もまた相対的な観念によるものでしかないのだから。


「鳥啼いて山更に幽なり」の禅語が醸し出す静けさの妙とは何なのかと考えれば、相対のなせるわざと読み取ることもできる。
しかし禅では相対を脱却し絶対の境地に立つことを目指す
そう考えれば、ここでいう静けさとは、もしかしたら騒がしさの対極にある静けさではないのかもしれない。
静かであろうと、騒がしくあろうと、揺らぐことのない静けさ。


しかしそう考えると、こんどは「更に」という表現に違和感が生まれる。
たとえば「更に」ではなく「変わらず」であったならどうか。
「鳥啼けど山変わらず幽なり」
こういう趣旨の禅語であったなら、禅としての意味合いが強くなるように思うが、趣きが激減してしまうか。
どことなく強がりのような匂いもする。
駄作かな。


結局のところ、良し悪しすらも相対的な観念でしかないのだから、何を言うとのことでもない話でしかないのだが。

視点

この記事を読んでいただいた知人の僧侶から、さらに一歩踏み込んだ有意義な見解をいただいたので、以下にご紹介させていただきたい。

この「幽なり」とは単に音の有る無しでいう「静けさ」を意味するものではないと思っています。
この句は、もともとは「蝉噪林逾静 鳥啼山更幽」のように他の句と対を成しているようです。
これを見ると、どうやら蝉や鳥が鳴いたその後に静かになるのではなくて、鳴いているそのままで静かだと言っているように思えます。
たしかに蝉や鳥の声が溢れる山の中にいながら「静かだな」と感じることはありますし、山の中にいて何も音のない状況というのもあまり経験がありません。
林には蝉が鳴くものですし、山には鳥が鳴くものです。
林は蝉を内包し、山は鳥を内包していると考えれば、蝉や鳥が鳴くそのままで林は林らしく、山は山らしくいつものようにそこにあるのみであって、決して騒いでいるわけでもなんでもない。
そのあり方が「静」であり「幽」なのではないか、そんな風に思います。
鳥が啼いて騒がしくなるのは聞く人の心だけであって、山は変わらずそこにある。
むしろ鳥がいつものように啼いていることこそ、奥深い趣のある山らしいあり方であるという意味で「『更に』幽かなり」と言っているのかもしれません。


山が、山らしくある。
それが「幽か」の意味するところだとすれば、鳥の啼き声は山の本分であるといえる。
山で鳥が啼くという当たり前のなかに存在の幽玄を見出した禅語なのかもしれない。