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【禅語】 鶏寒くして樹に上り 鴨寒くして水に下る - いろんな答えがあっていい -

禅語,鶏寒くして樹に上り鴨寒くして水に下る

【禅語】鶏寒くして樹に上り 鴨寒くして水に下る

雪の降りしきる真冬の池を鴨が悠々と泳いでいる、あの信じられない光景を目にしたことがあるだろうか。
人があの真似をしたら、寒さで凍え死んでしまってもおかしくない。
いや、きっと死ぬ。


見ているこちらが心配になってしまうような光景であるが、当の本人である鴨にとっては、そんな心配は無用なのだそうだ。


鴨には特殊な体の構造があって、足の温度は5度くらいでも体温は常に40度を保つことができるという。
なんでも、足で冷やされた血液が体の中心にまで届かないような仕組みになっているとか。
だから冷たい水を泳いでいても体温が下がらない。


まあ、足温は危険な数値まで下がるだろうが、それはまったく問題ないのだという。
体さえ冷やさなければ大丈夫なものらしい。


しかし足は大丈夫でも、お腹の下側はどっぷり冷水に浸かっている。
あれは大丈夫なのか?


じつはあれも大丈夫らしい。


鴨の羽毛には脂が塗り込まれていて、水をはじいて冷水が体表に付着することを防いでいるという。
それで冷たくないなんてことが可能なのか? 自分の腹で実験してみたら絶対冷たいと思うけど、と疑ってしまう。
しかしまあなんとも驚きの構造と発想をもった鳥なもんだ。鴨というのは。


ただ、そんな体の特殊構造を知らない昔の人は、やはりこの光景を見て少なからず驚いたようす。
禅語にも、「鶏寒くして樹に上り 鴨寒くして水に下る」という言葉があるくらいだから。


寒い冬に樹の上でじっとしている鳥がいれば、池に入ってすいすい泳ぐ鳥もいる。
寒さ一つに対しても、いろいろな対応の仕方がある。
あの鴨を見てみな、という具合の言葉なのだろう。


人の数だけ生き方がある

ところで成人式では、市長なり行政の方が次のような挨拶をされることが多い。
「今日、この成人式を迎えることで、みなさんは晴れて大人の仲間入りをはたしました。これからは大人としての言動を心掛けてください」
そんなスピーチが多いという。


式のあとに呑めや騒げやの宴がまっているかと思おうと、どうしても一言釘をさしておきたくなる気持ちは、わからなくもない。
ただ新成人となって浮かれている人の耳に、その言葉がしっかりと届いているかははなはだ疑問である……。


それで考えてみたいのは、ここで言っている「大人としての言動」とは何なのだろうかという点。
「大人としての正しい言動」というマニュアルのようなものがあって、それに沿って生きることを言っているのか。
無論、そうではないはずである。
そんなマニュアルはない。


「大人とは何か」を自らの内に問うことが、大人としての在り方である。
自分で自分を大人たらしめるということである。
パソコンに向かって、「大人の言動」で検索された情報を見て、それにならうことが大人の言動なのではない。
それは他人の言動にならっているのであって、依るべき確固とした精神を持たない子どもの言動である。


自らの言動を、自らの精神に依ること。
他に依らず、自らの精神に立脚して生きること。
それが「大人としての言動」の意味だろう。
つまりが、「ちゃんと自分の頭で考えなさい」と、壇上のお方は言いたいのではないか。


ゆえに、そこから導き出される答えは千差万別。
人と真逆の答えだっていくらでも飛び出す。
それはそれでいいのだ。


冬が訪れ、その寒さにどう対応するか。
木の上でじっとする鳥がいれば、水に入ってすいすい泳ぐ鳥もいる。
対応それ自体に正解などなく、それぞれがそれぞれの答えを行じるのみである。
「鶏寒くして樹に上り 鴨寒くして水に下る」という禅語も、そのことを言っている。


どのような答えであっても、それが自らの精神からでたものでなければ偽物となる。
誰かの借り物の言動を模倣していては、どこまでいっても鴨にはなれない。
鶏にもなれない。
何者にもなれない。
自分にもなれない。


だから、自らに問う
それだけが、自分自身をよりどころとして大人にいたる唯一の入口である。


人の数だけ生き方がある。
あなたは寒さに対峙したとき、どうやって対処するだろうか?


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