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「徹底」って仏教の言葉だったの? - 身近な仏教用語 -

仏教用語,徹底

【徹底】身近な仏教用語の意味

徹底」とは、「十分に」とか「しっかり行き届く」という意味で使われる言葉であるが、もともとは仏教の言葉仏教用語」だった。
仏典のなかで「ある比喩」として登場した言葉が、現在でも使われているのだ。
その比喩とは次のようなものである。


ガンジス河のほとりに3匹の動物がいた。兎と馬と象である。
3匹はみな河を渡って対岸にたどり着きたいと思っていた。
しかし河に橋はない。
そこで3匹は泳いで河を渡ることにした。


最初に河に入ったのは
兎は短い足で河の水面を小刻みに掻いて向こう岸へ向かって泳いでいった。


次に河に入ったのは
馬は兎よりもはるかに長い足で水を深く掻いて進んでいった。


最後に河に入ったのは
象はどう泳いだかというと、足が河底にまで達していたものだから、その太い足で河底をドシン、ドシンと踏みつけて歩いて渡っていった。


比喩が示すこと

さて、この話は何の比喩なのか。
じつはこれ、物事の理解の浅深を喩えた話なのだ。


つまり、こういうことである。
対岸に至るとは、物事を理解するということを意味している。
しかし、その理解には概ね3つの深さがある。


兎のように、水面を渡っていくのは、いわば物事の答えだけをただ覚えて、意味はわからないが答えだけは知っているという状態。
それでも一応は対岸に渡れるのだから、間違いではない。
ただし、本当に知っているとも言い難い。
「徹底という言葉は仏教から生まれた言葉である」とだけ知っていて、もともとの意味については何も知らないというような状態である。


2匹目の馬は、兎よりも理解が深い。
答えだけでなく、なぜその答えになるのか、意味も知っている状態である。
「徹底という言葉は仏教の比喩で使われていた言葉で、それが現代においても用いられ続けているということを知っている」状態とでもいえばいいだろうか。
もちろんどのような比喩なのかも知っている。


では3匹目の象の理解とはどのようなものか。
象は足が河の底にまで到達している。
つまりこれは、物事の奥底にまで考えを及ばせてその物事を理解しているという状態である。


仮に徹底という言葉の意味や成り立ちを知っていたとしても、ただ知っているだけでは情報にすぎない。
情報は、その情報について自分の頭で考えることによって、あるいは体験し経験し咀嚼し思索することで、ようやく知識へと昇華する。


情報のままでは、本当にそのことを知っているとは言えない。所詮は表面的な理解だからである。
一方の知識は、自分のこととして理解している状態であるがゆえに理解が深い。
これは似ているようで、実際にはおそろしいまでに隔たりのある違いであると言える。


たとえば「人は必ず死ぬ」ことを知っていても、それが自分のこととして理解できていなければ、本当に「人は必ず死ぬ」ことを知ってはいない。
あなたは自分が死ぬことを本当に知っているだろうか。
「本当に」知っているだろうか。
つまり、自分自身の問題として、自分が死ぬ存在であることを知っているだろうか。
これを情報と知識の違いなのである。


考えることによって情報は、自分の生き方に影響を与えうる重要な知識へと存在意義を変化させる。
そこまで物事を理解してこそ、本当に理解しているということになる。
情報は処世には役立つかもしれないが、自分の生き方に影響を与えるような知識にはならないのである。


象のような理解とは、自分の生き方に影響を与えるような理解の在り方を意味しているというわけだ。

底に徹する

徹底の「徹」とは、「つきとおる」「達する」という意味の漢字である。
したがって、底にまで達することを徹底という
象の河の渡り方がまさに徹底というわけだ。
そのように物事を深く自分のこととして理解することが、徹底という言葉の原意なのである。


普通、徹底というと、1つのミスもなく、ぬかりなく行うというニュアンスが強い。
ただ、原意を考慮すれば、なぜ徹底してそれを行わなくてはいけないのかを、自分自身でしっかりと考え抜くと解釈したほうが原意に近い。
情報を受け取るだけでなく、自分の頭で考えて、自分の血肉である知識として所有する。
そうしてはじめてその物事について知っていると言うことができる。
徹底のない理解は、結局のところ情報を知っているだけで、知識として理解しているわけではない。


世間の概論に流されないように、易い情報に流されないように、しっかりと河底の地に足を着けて思索を深めて物事を理解する
それが本来の徹底という言葉の意味なのである。


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