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禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

托鉢をする僧に出会って戸惑ったことのある方へ、ない方へ

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托鉢をする僧侶

先日、暖かな冬の日に托鉢をした。
現代でも地域によっては托鉢をする僧侶と出会うことが珍しくないところもあるが、大多数の方にとっては、托鉢をする僧侶と出会う機会などほとんど存在しないのではないかと察する。
偶然に托鉢中の僧侶と出会うことがあっても、見慣れていない方にはどうすればいいのかがわからないとの戸惑いの声も多く聞く。
実際、出家する以前の私も、18歳の頃に京都を旅行していた時にはじめて托鉢をする僧侶と出会ったのだが、どうしていいのかわからずに何事もなくすれ違った


あれは、修行をしているのだろうか?
托鉢というものだろうか?
近寄ると危なかったりするのだろうか?
手に持っているお椀のようなものにお金を入れるのだろうか?
いくらくらいが相場なのだろうか?


いろいろな疑問が頭をよぎったが、瞬時にそれらの解答を得ることなどできるはずもなく、「わからないものには手をださない」という防衛反応によって、ただすれ違って終わった。
その後、まさか自分が僧侶となって托鉢をすることになるなどとは思ってもみなかったが、実際に托鉢をしてみれば、その時の自分の思いが鮮烈に蘇ってくる。
不審だよな。
近寄り難いだろうな。
托鉢について知る機会なんてないもんな。
自分がそうだったからよくわかる。


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↑ 一緒に托鉢をしたお坊さん
頭に網代笠、足には脚絆(きゃはん)、手には頭鉢(ずはつ)と鈴を持っている。
衣を腰のあたりでたくし上げ、歩きやすいように裾を上げている。

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托鉢とは何か

そこで、托鉢とは何なのかについて簡単にまとめておきたい。
托鉢とは、僧侶が鉢(お椀のようなもの)を手に持って外を回り、お金や食料などをいただく行為をいう。
その目的は、大きく2つある。
1つは、いただいたものを生活の糧にすること。
いただいたお金やお米などを、寺院管理や食材などに充てるのである。
おそらく、托鉢の目的と言えばほとんどの方がこの理由を思い浮かべるのではないか。
むしろこれ以外に理由があるのかと訝るかもしれない。
しかしじつはもう1つ、とても大きな目的があるのだ。
それが、善行・修行としての意味合いである。


托鉢は修行だとされているが、その真意を知る人は少ない。
僧侶にとって修行であるという認識は間違いではないのだが、ある意味、これは施しをする側、つまりお布施(お金等)を出す側にこそ、修行という意味合いがより強く生じる行為なのだ。
どういうことか。
托鉢の本意は、僧侶に施しをすることで、人々に功徳を積んでいただくことにある
これは日本には根付いていない慣習であり思想であるため理解がしづらいが、布施とは僧侶よりも一般の人々のためと言える行為なのだ。
布施という尊い行為をするためには、相手が必要となる。
その相手役となるために、僧侶は托鉢をしているのである。
そうなの!? と驚くような理由であるが、これがむしろ托鉢をする一番の理由であると言える。


だから托鉢中の僧侶は、お布施をいただいてもお礼を言わないことが多い
お礼を言ってしまえば、まるで自分のための行為であるような意味合いとなってしまうからだ。
現代の日本では、自分の寺院を維持するための托鉢という認識でも間違いではないのだが、本意としてはやはり、一般の方が布施行をするための手伝いと捉えたほうが正しい。
「せっかくお金を出したのに何の礼もなくて腹が立った」
というような思いを聞いたこともあるが、それにはこのような事情が関与している。
理解していただくのは難しいかもしれない。
しかし、僧侶はそのような意味合いの上で托鉢を行っていることを、ちょっと頭の片隅にでも記憶しておいてもらえると非常にありがたい。


ただ、このような特殊な考え方をする布施という概念そのものが、日本には根付いていない。
意味を理解されていない土地で本意を押し通そうとしても、それは誤解を生むだけになりかねない。
そのような現実を考慮して、現在ではあえてお礼を言う僧侶もいる。
声に出して「ありがとうございます」と言わずとも、無言で頭を下げることで礼とする僧もいる。
また、けっこう多いのが「施財の偈(せざいのげ)」という非常に短いお経を唱えて、礼とするパターンである。
私もこのパターンで托鉢をしている。
お布施をいただいたら「施財の偈」を唱えて、軽く頭を下げて再び歩きはじめる。
施しをした人にとっては、何が行われてどのような意味があったのか不明で終わる可能性は高いが、そこはもう申し訳ないと思うしかない。
その都度説明を添えるのはいかにも無粋だ。
だから「何とか伝わってくれっ」と念じながら偈文を唱えて去るのみ、となる。

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托鉢僧への施し

実際に托鉢中の僧侶と出会って、施しをしてみたいと思ったとしても、どのようにして渡せばいいのかよくわからないという声は多い。
僧衣という出で立ちが怪しいので、易々とは近づきがたいというのが一番の理由だろう。
ただ、施しを拒否する僧侶はいないし、もっとくれという失礼な僧侶もいない。
「托鉢をする僧侶に悪人はいない」というのが、私の所感にしかすぎないものの、出家して端的に思うことなので、心配はしていただかなくてもいいように思う。
まあ、一部、少々あやしい托鉢僧もいるにはいるのだそうが……。


それで、僧侶の托鉢の仕方にはいくつかの方法がある。

  • 街角や寺院の前などで微動だにせず立ち続ける方法。
  • 一軒一軒お宅の玄関の前に立つ方法。
  • ひたすら歩き続ける方法。

家の前に立つ方法は、永平寺で修行をしていた際に一度だけ行ったことがあるが、正直なところこれはやめたほうがいいのではないかと感じた。
家の方にしてみれば、見知らぬ風貌の人物がいきなり自分の家の玄関先に立っているのである。
不審、恐怖、拒絶。
それ以外の感情を抱くケースがあるとしたら、それはごく稀なケースに違いない。
托鉢がきちんとその地域に根付いて認知されていれば問題ないだろうが、そうでない土地で家の前に立つのは、あまりよろしくないように思う
こちらの都合を押し通すばかりではいけない。


どういった場合であっても施しの仕方は同じで、僧侶が手に持っている鉢に施す物を入れていただけるとありがたい
現代ではほとんどがお金であるが、もちろん金額に決まりはない
お賽銭を入れるときのように考えていただければ何も問題はない。


施しをすると、僧侶は手に持っている鈴(れい)をチリリンと鳴らし、私であれば偈文を唱える。
ただこのあたりは宗派や人によって考え方にだいぶ差異があるので、一概には規定できない。
その時、その僧侶の行う作法に準じていただきたい。
仮に何の反応もしない僧侶がいたとしても、怒りの気持ちは抱かないでほしい。
せっかくの尊い布施が、布施でなくなってしまう。
前述したように、布施という概念は少々特殊で、あくまでも第一義は施主(施しをする側)のためであるという考え方が存在するので、何も言わない僧侶がいたとしても、それは傲慢な態度とは違うのだ。

施財の偈

施しをいただいた後に唱える「施財の偈」というものについて、最後に述べておきたい。
「施財の偈」とは、次の短い偈文である。
財法二施(ざいほうにせ)
功徳無量(くどくむりょう)
檀波羅蜜(だんばらみつ)
具足円満(ぐそくえんまん)
乃至法界(ないしほっかい)
平等利益(びょうどうりやく)


これを現代語に訳せば、私は次のように理解している。
「物を施したり教えを施したりすることは、はかり知れない功徳を生む。
そのような尊い行為をする者には、満ち足りた想いが宿るでしょう。
そして施しによって生まれた功徳は、世界をよりよいものへと変化させていく」


このような意味の言葉を、私たちは最後に唱えている。
意味が伝わらないかもしれないとは思いつつも、それでもこれを唱える。
小さな男の子から施しをいただいた時にも、やはりこの偈文を唱えた。
意味はわからなくても、何か伝わればいいと思った。
自分の大切なものを人に分け与える行為は、本当に尊いものだ。
それは大袈裟ではなく、本当に世界を変えていく力の源になると思っている。