禅の視点 - life -

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障道 ~仏道修行を障げるもの~

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障道 ~仏道修行を障げるもの~

禅には障道(しょうどう)という言葉がある。
読んで字の如く「仏の道を障(さまた)げるもの」という意味である。


仏道などと改まらなくても、たとえば家で勉強をしようとしていたとき、ふと目にした新聞のテレビ欄に面白そうな番組があって、その番組が気になって勉強に身が入らなくなるといったことでもいい。
この場合、テレビは勉強を進める上での障壁といえる。


何かをしよう、したい、と思いながら、それとは逆方向の思いが脳裏にチラつくことで、どうしても集中することができない。
障道というものを一般生活に当てはめれば、だいたいそのようものであると言うことができる。


しかし、勉強に対するテレビなら、
「テレビなんて観ずにさっさと勉強しなさい」
の一言で済むかもしれないが、実際にはもっとデリケートで微妙な障道というものが存在する。
たとえば『正法眼蔵随聞記』のなかには、ある僧侶が道元禅師に意見を求める次のような話が書かれている。


ある僧侶の悩み

一人の僧侶が道元禅師にこう訊ねた。

「私には老いた母がいます。私はその一人息子です。今は私が母に仕送りをすることで衣食住をまかなっている状態です。
母は私のことをとても愛情深く育ててくれました。私もそんな母を大切に思っています。


そのような状況なものですので、僧侶ではありますが世俗に身をおき、稼ぎを得て、母を養っております。
もし私が世俗との関わりを断ち、稼ぎを得られなくなったとしたら、母の生活はままならなくなることでしょう。
ですので私は世俗のなかで暮らしています。


しかしながら、私としては、ひたむきに仏道修行をしないというのもとても心苦しいのです。
私は一体どうしたらよいのでしょうか。
もし、ひたすらに仏道修行に打ち込む道理があると思われましたら、そのあたりのことをどうか教えていただけませんでしょうか」


つまりこの僧侶の悩みとは、母の恩に報いるために養育を続けたいと思いながらも、一方では仏道修行に専念したいという、板挟みの状況に関するものであった。
禅ではこうしたケースも障道の一つと考えるのである。


母が障道になっているなどというと、非情ここに極まれりとの感もあるが、構図としては確かに仏道修行を障げていることに違いはない。
はっきり言って、なんとも微妙なケースである。

道元禅師の見解

このような問いに対して道元禅師は、
此の事、難治なり」(この問題はとても難しい話である)
との前置きをして、次のような考えを伝えた。


「この問題は、他人がどうこう指図するべき話ではない。
まずもって、自分自身でよくよく考え抜くことが肝要である。


ただ、もし本当に仏道を志す気持ちがあるのであれば、どのような手段や方法を駆使してでも母親の生活を安定させる道を見つけ出し、そうした上で修行に励むことが、あなたと母親の双方にとって良き道であるのは間違いない。


どんなに手強い敵でも、どんなに可憐な美女でも、どんなに得がたい財宝でも、これをどうにかしたいという思いが本物であれば、必ず手立てはあるものだ。


禅宗の六祖、中国の慧能禅師も幼少の頃はあなたと同じような境遇にあった。
薪を売って母を養っていたが、ある日、町で『金剛経』を耳にして出家を志した。
しかし自分には養わねばならない母がいる。


どうしたものかと苦心していたら、出家を志すなら銀30両を与えてもいいという者が現れ、それで母の生活をまかなうことができたという。
これもひとえに、仏道を願う心が切実で本物であったからの道理だと思うのである。


また別の考えとして、たとえば母親が天寿を全うした後に仏道修行に専念するという方法もあるだろう。
そうであれば何の心配もなく修行に専念でき、けっこうなことである。


しかしながら人の死期は定まらぬもの
老いた者が死に、若い者が生きることばかりではない。
母親のほうが長生きし、あなたのほうが早く亡くなるかもしれない。


もしそんなことになってしまったら、あなたは仏道修行をする志しをまっとうすることなく人生を終え、後悔の念に駆られることだろう。
母は母で、息子を僧侶として生きさせることができなかった、息子の願いを叶えてあげることができなかったと、罪の意識に苛まれるに違いない。


これでは双方にとって得るものはなく、互いに悔いが残ってしまう。
どうしたものか。


いっそのこと、俗世との縁を絶って、仏道修行に専念したらどうなるだろうか。
そうであれば、もし母親が生活に困窮するようになったとしても、自分の一人息子を僧侶として送り出すことができた功徳は、母親を悟りの道へ導く縁となりえるのではないか。


あなた自身にとっても、断ちがたい世俗との縁を断ち切って仏道に精進することができたなら、それこそ誠に母の恩に報いることと言えるのではないか


身内から一人でも出家して僧侶となる者が現れたら、七代前の先祖まで遡って皆がその功徳を受けて悟りの道に入ることができるという。
この世の一代限りの人生に執着することで、長きにわたる安楽を失ってしまうかもしれないとしたら、はたしてそれでよいのだろうか。


以上のように、あなたの問題にはいろいろな道理を考えることができる。
よくよく自分自身で考えて答えを出しなさい


恩に報いるとは何か

僧侶の問いに対していろいろな考えを提示した道元禅師であったが、最終的には自分で答えを出すことが大事だとして、一つの道を示すことはなかった。


この回答のなかで特に印象に残るのは、道元禅師が考える「親の恩に報いる誠の行為とは何か」についてである。
つまり、親の恩に報いるとは必ずしも親を手厚く養うことではなく、仏道を歩むことであるとする考え方である。


仏教では親の恩に報いることを非常に大切な行いであると説く。
しかし、それ以上に重要なのは、そもそも親の恩に報いる行いとは何であるかを考える点にあると言えるかもしれない。


親から受けた恩を、親に返す。
それはそれで間違いではないだろうが、それが最善だとは仏教は考えていない。
親だけに恩を返すのではなく、仏道を歩むなかで積んだ功徳を多くの人々に廻らし向けることができたなら、それは親に恩を返すよりもさらにすばらしい行為であると考えるのが仏教だからである。


そしてそのような大きな功徳を生む生き方を志す者を世俗に引き留める言動は、罪に等しい行為であるとも考えられる。
我が子が仏法を求め歩む人生を志したのにも関わらず、それを引き留めるのは、悪業を積む行為にほかならないのだ。


もし仏道の志を絶やしてしまったら、母親に悪業を積ませたことになってしまう。
そうした道理があることも忘れずに、よくよく考えなさいという道元禅師の言説は、受け取り方によってはかなり厳しいものに感じられる。


しかしながら、親の願いの本質が子への執着であったなら、その願いを叶えることがはたして親の恩に報いることなのか、これは甚だ疑問であると言わざるをえない。


親は我が子の幸せを願っている。
我が子が人の役に立つような人間になってくれるのを、親は何よりも願っている。
そう信じて、親から受けた恩を親に返すのではなく、回りの人々に廻らしていく
それは立派に親の恩に報いる生き方であるように思う。


仏教が世俗との縁を断つことを説くのは、親子などの特定の情愛だけにとどまることなく、すべての人に情愛を傾けさせようとするためかもしれない。
仏道を歩むことで人を救うことができるなら、それに勝る功徳はない。それに勝る報恩はない。
そのような論理が基礎として存在するからこそ、親の恩に報いるために仏道を歩むという発想にいたるのではないか。


障道と報恩は、じつは深いところでつながっているように思えてならない。