禅の視点 - life -

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【禅語】 啐啄同時 - 導く者と成長する者の間に生まれる、絶妙の機を逃さない -

啐啄同時,そったくどうじ

【禅語】啐啄同時(そったくどうじ)

フィギュアスケートの選手が演技のためにリンクに滑り出していくとき、コーチと最後の言葉を交わす場面がよくテレビで放映される。
何を伝えているのかは聞こえないが、選手にとってもっとも心強い言葉を伝えているのだと思う。
言葉以外にも、手を握ったり、肩を軽くたたいたり、背中を押したり。


スポーツの世界以外でももちろんそうだろうが、やはり選手にとってコーチや監督の存在は相当に大きいことが想像される。


たとえその選手にどれだけ高い素質があったとしても、その才能を見抜いて引き伸ばしてくれる師に出会うことができなければ、せっかくの才能も開花せずに蕾のままで終わってしまうかもしれない。


すると、

良い師に出会えるかどうか


それがその後の選手生命を大きく左右する重要な事柄であることは、間違いないだろう。


導く者と導かれる者

禅においても師の重要性はスポーツと同じ。
正しい師に出会うことが、最初にして最大の関門であるとすら言える。
正しく導いてくれる師に出会うことができれば、弟子は正しく成長することができる。



それはあたかも、優れた大工のもとにたどり着いた木材のようで、匠の手にかかればどのような木材であってもその性質を生かした活用がなされるのと同じこと。
優れた師とは、どのような弟子であってもそれぞれに応じた正しい道を示すことのできる人物を指すのである。


曲がった木は曲がった木として輝く場所があり、真っ直ぐな木は真っ直ぐな木として輝く場所がある。
曲がった木を真っ直ぐにしようとせず、真っ直ぐな木を曲げようとせず、木を見て木を活かす。
匠と木の関係はまさに、師と弟子の関係そのもの。

啐と啄が同時であるということ

そんな師と弟子との関係を一言で表した禅語が「啐啄同時」。


「啐(そつ)」とは、卵の中の雛が「もうすぐ生まれるよ」と内側から殻をつつく音。
「啄(たく)」とは、そんな卵の変化に気づいた親鳥が、「ここから出てきなさい」と外側から殻をつつく音。


殻を破る者と、それを導く者。
そんな両者の「啐」と「啄」が、少しもずれることなくピタリと同時に行われるというのが師弟の理想であり、この「啐啄同時」という禅語の示すところというわけである。


もしも親鳥が、雛が十分に成長する前に外から殻を破ってしまったら……。
準備が整う前に外界に出てしまった雛は、はたして無事に成長することができるのか。時期尚早とばかりに、過酷な運命が待っているかもしれない。


だからといって、親鳥がいつまでたっても殻をつつくことをしなければ、自分の力で殻を破ることのできないような雛はなかなか外に出られない。
下手をしたら、そのまま殻の中で力尽きてしまうかもしれない。それも相当に心配である。


だから理想は、雛と親鳥の殻をつつくタイミングがちょうど同じであること。
それが「同時」であることの意味。


早くもなく、遅くもない。「その時」を逃さず、正しく導く機知に富んだはたらき。
それはつまり、親鳥である師が雛である弟子を導くのに、どこでどのようにきっかけを与えるか、そのタイミングを決して間違わない、絶妙の機を逃さないという意味にもなるのである。

良い師とは何か

世に指導者は星の数ほどいる。そんな指導者にとって、本当に必要な資質とは何だろうか。
技術を教えることができる。知識を教えることができる。もちろんそれらは必要なことである。


でももっと大切なのは、教え子があと一歩で殻を破ることができることを見逃さず、どこを破ればいいのかをそっと示して、その成長を促してあげること
そんな人物が、真に優れた指導者なのではないか。
それには教え子をよく見る眼が大切で、音なき「啐」を感じ取る知覚が欠かせない


世の中を見渡してみれば、導く者と成長する者の関係はどこにでも存在する。
親と子にはじまり、教師と生徒、コーチと選手、上司と部下。職人の世界なんて、師弟関係の最たるものである。


それら師と弟子の両者が相対する研鑽の場では、厳しく、優しく、時に不器用な師の「啄」が、今日もいたるところで行われているのだろう。