【禅語】悟れば好悪なし(さとればこうおなし)
ブッダは、弟子から「悟った人物とそうでない人物の違い」、つまり聖者と凡夫の違いについて質問をされて、矢を用いた喩え話で説明をされたことがあった。
それが、「第一の矢と第二の矢」の話だ。
たとえば、美味しい料理を食べたとする。
その時に抱く「美味しい」という感覚は、悟っていても、悟っていなくても、どちらも同じ。
どちらも等しく「美味しい」と感じる。
これが料理から放たれた第一の矢を受けての感想である。
同じように、散歩をしていて道端にきれいな花を見つけた時に「きれいだな」と思うのも、第一の矢。
車を運転していたら、急に横から割り込みをしてくる車に出会って「危ない」と思うのも、第一の矢。
それら一次的な思いはすべて第一の矢であり、この矢は悟った者にも悟っていない者にも変わりなく突き刺さる。
問題は、第二の矢だ。
美味しい料理を食べると、我々は往々にしてもっと食べたいという思いを抱く。
おかわりができればおかわりがしたくなり、またいつか同じ料理を食べたいとも願う。
あるいは、きれいな花が咲いていれば、摘んで家に持ち帰って花瓶にでも活けてみたいとか、割り込みをする車の運転手には文句の一つも言ってやりたいとか、そうした思いを引きずることがある。
このような一次的な思いから生じた二次的な思いが、第二の矢。
悟った者は、第一の矢を受けても第二の矢は受けない。
しかし悟っていない者は、第一の矢を受けた後に、すぐ第二の矢も受けてしまう。
それが聖者と凡夫の違いなのだと、つまりは悟った者とそうでない者の違いなのだと、ブッダは説いたのだった。
第一の矢と第二の矢は、どこが違うのか?
両者の違いは、ずばり、飛んでくる場所。
第一の矢は、外から飛んでくる。
第二の矢は、内から飛んでくる。
内とは、もちろん自分の内側のことである。
外から飛んできた矢を受けて心が動き、心が動くことで自分の心から第二の矢が放たれ、自分で放った矢が自分自身に突き刺さってしまうのだ。
あたかもブーメランのように我が身に向かって飛んでくる矢。
自分で投げて、自分で傷を負うのだから、ある意味自業自得であるといえるかもしれない。
これはつまり、第一の矢を受けて、それについて好き嫌い、善し悪し、是か非かという執着を起こすことで、第二の矢が放たれるということを示している。
料理を食べた一次的な思いについて、さらに好き嫌いを言う。
きれいな花について、さらに善し悪しを言う。
割り込みをする車について、さらに是か非かを言う。
すると、そこから第二の矢が放たれる。
だから、美味しい料理は「あー美味しかった」で終わりにする。
きれいな花も「あーきれいだな」で終わりにする。
危険な車も「あー危ないな」で終わりにする。
そこで終わって、心をニュートラルに戻しておけば第二の矢は放たれない。
反対に、喜怒哀楽の感情を引きずると、どうしてもそこから苦しみが生じてきてしまう。
喜と楽をずっと味わっていたいと思っても、やがてそれが叶わなくなって苦しみとなる。
怒と哀を引きずると、いつまでも心が安まらない。
感情の引きずりによって、苦しみがひょっこり顔を出す。
執着しない生き方
悟ったなどというと、あたかも第一の矢さえも受けないような人を超えた人格を想起しがちだが、そうではない。
一次的な思いは、人が生きていく上で不可欠であり、不可避の感情。
これをなくすことなどできないし、なくしてしまえばもはや生きてはいられない。
しかし、第二の矢は違う。
第二の矢はあくまでも自分本位の執着から放たれる矢であり、自分の内側から放たれる矢。
第一の矢を受けて、さらに第二の矢を放つかどうか。
それが悟った者と、そうでない者の違いなのだ。
「悟れば好悪なし」
好き嫌い、良し悪し、是か非か。
そうした思いを生じさせる元になる「我」を忘れ去った状態が、悟りであると言えるのかもしれない。
そうであれば、我に執着すること、自分の感情に執着することから、苦しみは生まれるということか。
悟りという事柄を端的にあっさりと示しているものの、なかなか奥の深い禅語である。
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