『修証義』第二章「懺悔滅罪」を現代語訳
『修証義』の第二章「懺悔滅罪」(さんげめつざい)とは、罪を悔いて反省することによって、罪が消滅して清浄になると説くものである。
ただし罪などと言うといかにも物騒で犯罪のようなものをイメージしてしまい、自分は罪など犯していないと思う方もいるかもしれない。
しかしそうではなくて、たとえば刑法に該当するような罪ばかりが罪なのではなく、外を歩けば知らず知らずのうちに小さな虫を踏み殺してしまっているかもしれないし、あるいは煩悩や欲といったものをも罪の対象として仏教は考えている。
そして、それら過去の過ちを反省し、今後同じような過ちを犯さないと誓うと同時に、過ちの根本にある欲や煩悩から離れることこそが懺悔の本質なのだと。
仏教は欲から離れることを説く。
しかし私たち人間は、完全に欲から離れることはできない。
生存がすでに「生存欲」の上に成り立つものであり、根源的な欲をなくしてしまえば生存することができなくなるからである。
したがって煩悩をなくすのではなく、欲を少なくしてコントロールすることができるよう、欲を精神の制御下におさめることが仏教や禅の修行の根幹となる。
人間は生きている限り罪を犯し続ける生き物であるが、その自覚を有することができたならば、懺悔する心もまた有することができるようになる。
煩悩にまみれた凡夫の心と、懺悔をする仏の心の両方を有しているから我々は人間なのである。
人間とは凡夫であり、また仏でもあるのだ。
このような内容の第二章について、その原文と現代語訳を読み進めていきたい。
なお、そもそも『修証義』とは何かについては、下の記事を参考にどうぞ。
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第七節
仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為めなり、人天誰れか入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。
現代語訳
ブッダをはじめとする歴代の祖師方は、慈悲の心から救いの門を開き続けてこられた。
それは、この世界に生きるすべての人々を安らかな心へ導くための教えの門であった。
どのような人であっても、志しを持ったならば、誰もがこの教えの門の内に入っていくことができた。
過去に過ちを犯し、また平生気付かないあいだにも罪を犯している私たちは、為した悪い行いの報いを受けなければならない。
しかしその罪を懺悔したなら、悪業の報いは軽くなる。
そのようにして生きることで、心は浄らかなものになる。
汚れた茶碗にご飯をよそうことがないように、新しい門をくぐるとき、まず最初に行うべきは過去の汚れをきれいに洗い流すことなのだ。
仏の生き方の最初に懺悔が存在するのは、そのような理由による。
第八節
然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし、恁麼するとき前仏懺悔の功徳力我れを拯いて清浄ならしむ、此の功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき自佗同じく転ぜられるなり、其の利益普く情非情に蒙ぶらしむ。
現代語訳
だから人は、正しい道を歩もうとするとき、決して慢心を抱くことなく、必ず自己を省みながら進んでいかなければいけない。常に懺悔の心を忘れてはいけない。
仏の前で自分の罪を素直に懺悔することができれば、罪の事実は消えずとも心は浄らかになる。そうした浄らかな心は、正しい道を歩む上で非常に頼もしい助力になる。
浄らかな心がひとたび現れれば、自分が変わるだけでなく、変わったあなたに影響されて周りの人も変わっていく。善い心から生まれた影響力はどこまでもひろがって、人や生き物に限らず、山川草木などの大自然にまで広がっていくだろう。
第九節
其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。
現代語訳
仏に対して懺悔するとき、心には次のような思いがあるだろう。
「私は悪い行いをして悪業を積んでしまいました。
正しい道を歩こうと思っても、この悪業の報いが障碍となって道を阻み、挫折し諦めてしまうかもしれません。
だから正しい道を歩まれ悟りを得られた仏さまにお願いがあるのです。
どうか私の懺悔を聞き届けてください。
そして悪業による報いにも屈せず、道を見失わないで歩いてゆけるよう、見守っていてください。
仏さまの慈悲の心から生まれた功徳の力や導きの言葉が世界中に満ちて、そしてその慈悲が私の身にも降り注ぐことを願ってやみません」
仏も昔は我々と同じ凡夫であった。
だから我々もまた正しく生きることで仏になることができる。
凡夫と仏は別人ではないのだ。
第十節
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。
現代語訳
懺悔をするときは「懺悔文(さんげもん)」を唱えるといい。
次の短い偈文のことである。
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生
一切我今皆懺悔
この懺悔文の意味は次のようなものである。
「私はこれまでに為してきた悪しき行いによって、多くの悪業を積み重ねてきてしまった。
それは意識して行った場合もあれば、無意識のうちに行ってしまった場合もある。
どちらの場合でも、貪欲に何かを求めたり、我を忘れるほどに怒ったり、正しいことを考えなかったことが原因となって、行いと言葉と意識とで生み出してしまったものである。今、そのすべてをここに懺悔する」
おおよそ、以上のようなものだ。
仏の前に身を正し、心に懺悔の念を深く起こし、声に出して「懺悔文」を唱えたなら、仏は必ず我々を見守ってくださる。
罪の事実は消えなくても、懺悔によって身と心は浄らかなものになる。
罪の根っこを溶かして、これ以上いらぬ罪の芽が生えないようになるのである。
↓『修証義』の続き(三章)はこちら↓
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