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【賽の河原地蔵和讃】亡くなった子ども(水子)と地蔵菩薩の物語

賽の河原地蔵和讃

【賽の河原地蔵和讃】亡くなった子ども(水子)と地蔵菩薩の物語

幼い子どもが亡くなった場合、あるいは水子の供養をする際などに、それぞれの子が眠る家の墓石とは別に、合祀墓のような形となっている石塔に向かって読経焼香をし供養を施すことがある。
そしてそのような供養塔にはけっこうな確率で、地蔵菩薩が祀られていたりする。


じつは仏教の世界観のなかで子どもと地蔵菩薩は関わり合いの深い関係にあり、子どもを救うのは決まって地蔵菩薩だという考えがあるのだ。
のび太くんを助けるのはいつでもドラえもん、というような関係と少し似ているかもしれない。


そんな地蔵菩薩の威徳を表現した和讃(歌のようなもの)に、「賽の河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)」というものがある。
しかしながらこれがちょっとした問題を孕んだ、非常に考えさせられる和讃となっているのだ。


私ははじめてこの「賽の河原地蔵和讃」の全文を読んだとき、こんな悲しい気持ちを起こさせる歌があるかと、その存在を否定したくもなった。
和讃の趣旨は地蔵菩薩の徳を讃えるもので、最後はそのようにして「救い」で結ばれるのだが、そこに到るまでの間にはさまれる描写が酷いのである。


亡くなった子どもらが賽の河原で悲しみ恐れ泣き叫ぶ描写がなされており、読む者や聴く者の心臓を圧迫するような、胸の奥をえぐられるような、息苦しい思いが生じてくる。
この歌のどのあたりに仏教の教えが埋め込まれているのか、それについて考える以前に、とにかく子どもが可哀想に思えてしかたがない
描写に意識がもっていかれてしまう。


和讃の内容を知らずしてではうまく話が進まないので、まずはこの「賽の河原地蔵和讃」の全文を読んでいただきたい。
死後に訪れるという「賽の河原」での架空の物語を
そしてその後に、この和讃に込められた祈りと救いのレトリックへと進みたい。


賽の河原地蔵和讃(全文)

これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原のものがたり


この世に生まれ甲斐もなく
親に先立つありさまは
諸事の哀れをとどめたり


二つ三つや六つや七つ
十にもたらぬ幼児(おさなご)
賽の河原に集まりて
苦しみ受くるぞ悲しけれ
娑婆(しゃば)とちがいて幼児が
雨露しのぐ住家さえ
なければ涙の絶え間なし


河原に明け暮れ野宿して
西に向いて父恋し
東を見ては母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とはこと変わり
悲しき骨身を透(とお)すなり


ここに集まる幼児は
小石小石を持ち運び
これにて回向(えこう)の塔を積む
手足石にて擦れただれ
指より出ずる血の滴(しずく)
身体を朱(あけ)に染めなして
一重積んでは幼児が
紅葉(もみじ)のような手を合わせ
父上菩提(ぼだい)と伏し拝む
二重積んでは手を合わし
母上菩提回向する
三重積んでは古里(ふるさと)
残る兄弟わがためと
礼拝回向ぞしおらしや


昼はおのおの遊べども
日も入相(いりあい)のそのころに
冥途(めいど)の鬼があらわれて
幼きものの傍により
やれ汝らなにをする
娑婆と思うて甘えるな
ここは冥途の旅なるぞや
娑婆に残りし父母は
今日七日(なのか)や二七日(ふたなのか)
四十九日(しじゅうくにち)や百箇日
追善供養のその暇に
ただ明け暮れに汝らの
形見に残せし手遊びや
太鼓人形かざぐるま
着物を見ては泣き嘆き
達者な子どもを見るにつけ
なぜにわが子は死んだかと
(むご)やあわれや不憫やと
親の嘆きは汝らの
責苦を受くる種となり


かならず我を恨むなと
言いつつ金棒振り上げて
積んだる塔を押し崩し
汝らが積むこの塔は
(ゆがみ)がちにて見苦しし
かくては功徳になりがたし
とくとくこれを積み直し
成仏願えと責めかける


やれ恐ろしやと幼児は
南や北やにしひがし
こけつまろびつ逃げ回る
なおも獄卒金棒を
振りかざしつつ無慙(むざん)にも
あまたの幼児にらみつけ
すでに打たんとする陰に
幼児その場に手を合わせ
熱き涙を流しつつ
ゆるし給(たま)えと伏し拝む


おりしも西の谷間より
能化(のうけ)の地獄大菩薩
動(ゆる)ぎ出でさせ給いつつ
幼きものの傍により
なにを嘆くか嬰児(みどりご)
汝らいのち短くて
冥途の旅に来たるなり
娑婆と冥途は程遠し
いつまで親を慕うとも
娑婆の親には会えぬぞよ
今日よりのちは我をこそ
冥途の親と思うべし


幼きものを御衣(みころも)
(そで)や袂(たもと)にだき入れて
憐れの給うぞありがたや
いまだに歩まぬ嬰児を
錫杖(しゃくじょう)の柄にとりつかせ
忍辱(にんにく)慈悲の御肌(みはだえ)
泣く幼児を抱きあげ
助け給うぞありがたや


なぜ子どもらは責められるのか?

以上が「賽の河原地蔵和讃」の全文である。
どう思われただろうか。
憤りを感じた方もいらっしゃるかもしれない。


この和讃は地域や時代によっていくつものバリエーションがあることが知られている。
言葉や文章に違いがみられるものが多く存在するのである。
つまり上記の文例は一例にすぎず、これが「賽の河原地蔵和讃」の正式というわけではない。


昔の文章は今よりもさらに酷い描写があったという話を聞いたことがある。
ただ、あまりに酷く可哀想であるため徐々に言葉は軟化していったそうだ
現行の文章でも十分に酷い話であると思うのだが……昔は一体どんな内容だったのだろうか。


それで、問題は「なぜ亡くなった子どもらは、死後にまで責め苦を受けなければいけないのか」である。
これを理解しておかないと、よりによって亡くなった幼い子らにそんな酷い仕打ちをするなど、非情にもほどがあるのではないかと、この物語を考え出した仏教の世界観を疑問視せずにはいられない。
まあ、理解しても疑問視せざるをえない方は多いと思われるが……。


「賽の河原地蔵和讃」では、子どもらが責苦を受ける理由として、次の箇所において明確に答えを示している。

親の嘆きは汝らの
責苦を受くる種となり

子どもらの親は、わが子を失い、わが子の形見をみては嘆き悲しんでいる。
つまり親を嘆かせ、悲しい思いをさせたから、子どもらは責苦を受けているという理屈なのである。


「賽の河原地蔵和讃」で語られる子どもの罪とは、「親を悲しませたこと」。
いや、正確にいえば、「親を悲しませている」ことなのだ。


前者と後者とで何が違うか。
過去形か、現在進行形か、の違いである。
じつはこの僅かな違いに重要な意味がある。


今この瞬間も、親は亡くした子どものことを考えて悲しんでいる。
それが責苦を受ける種となり、鬼の金棒で塔を壊されて子どもらは打擲(ちょうちゃく)を受けることになる。
じゃあどうすれば子どもが責苦を受けなくてすむかというと、親が涙をぬぐえばいい
今、親が嘆き悲しまなくなれば、子どもは責苦を受ける理由がなくなるからである


親を悲しませているという罪を負ったと考えられているから責苦を受けるのであって、その罪がなくなれば、つまり親が悲しみから立ち直ることができれば、それ以上子どもが責苦を受ける理由はなくなる。
子どもたちが賽の河原で石を積むのも、親の心が平安なものに戻ってほしいからに他ならない。


賽の河原地蔵和讃,地蔵菩薩
↑とある寺院に祀られている地蔵菩薩。
賽の河原が表現されている。
後ろには「賽の河原地蔵和讃」の全文が掲載されている。

なぜ子どもらは石を積むのか?

「賽の河原地蔵和讃」に登場する子どもらは、賽の河原で石を積んでいる。
秋田県の恐山などでも賽の河原と名付けられた不毛の地に、実際に石が積まれている光景を目にしたことがある方もいらっしゃるかと思う。
あれは石を積むことで功徳を積み、その功徳を送ろうとしているのである
「賽の河原地蔵和讃」では子から親へ。
そして恐山では、親から子へ。


石を積むことがなぜ功徳を積むことになるのかといえば、これは仏塔を作っているということにつながるから。
仏教では昔から、仏像を作ったり仏塔を建立したりすることには大きな功徳があると考えてきた
幼い子どもらに立派な像や塔を作ることはできないが、せめて河原の石を積んで仏塔を作り功徳を生み、その功徳を親に向けて送り親の平安を祈ることで、自分たちにも功徳が得られるようにと願ったわけだ。


しかしせっかく作った石の塔を、鬼がやってきては壊してしまう。
歪んだ塔では見苦しく、とても供養にならないといって、これを崩すのである。
だから子どもらはまた一から石を積み重ねて塔を作らなければならない
石に擦れて血が滲む、その小さな手で。


これが何を意味しているかといえば、まだ親が嘆いているからだめだ、ということなのである。
まだお前たちの功徳は親に届いていない。親の悲しみは救われていない
だから作り直せ。
そういって、鬼は塔を崩すのだ。


そこでは亡くなった子どもら自身の悲しみは少しも問題とされない。
問題の焦点は常に親に向けられているのである。


そうして繰り返される賽の河原の悲劇も、最後には地蔵菩薩の登場によって子どもらは救われることになる。
そのまま読めば、地蔵菩薩を敬い地蔵信仰を強調するものであるように思えるが、真意は別にあると私は思う


涙をぬぐう百箇日

亡くなった子どもらには地蔵菩薩がついている。
だから親は安心して涙をぬぐって、もう一度前を向いて歩きはじめてほしい。
悲しみは簡単に癒えるものではないだろうが、涙をぬぐってその笑顔を子どもたちにみせてほしい。
元気だよ、と。


それを見たら子どもたちは絶対に喜ぶ。
自分のせいで親が悲しい顔をしているのだと知ったら、子どもたちは悲しくなる。
だから苦しくても、できるかぎり笑顔で生きてほしい
それが子どもを安心させる唯一の方法だから。


それが「賽の河原地蔵和讃」に込められた真意なのではないか。


歌詞のなかにはこんな一節がある。

娑婆に残りし父母は
今日七日(なのか)や二七日(ふたなのか)
四十九日や百箇日
追善供養のその暇に

亡くなってから7日ごとに勤められる初七日法要、二七日法要、三七日法要……そして七七日法要(四十九日)を経て中陰法要が明け、その後に百箇日法要がやってくる。
故人が亡くなってから百日目に行われる百箇日法要の別名は、卒哭忌(そっこくき)
泣くことを卒業する日、つまり涙をぬぐう日である。


「賽の河原地蔵和讃」の文々のなかに「一周忌」以降の言葉が登場せず、百箇日までしか歌詞に出さなかったのには、やはり意味があるのではないだろうか。
つまり、そこで涙を卒業することが、子どもらの供養につながるということを暗に示唆したと考えられるのである。


「賽の河原地蔵和讃」が幼い子を亡くした親に伝えたいのは、おそらくそのことなのだと思う。
単に地蔵菩薩を敬う地蔵信仰を強調したいのではなくて、子どもたちの酷い描写をあえて頻出させて、親の立ち直りを求めたのだということ。
涙をぬぐうことが、何よりも亡き子の供養になるのだと。


それほどまでに子を亡くした親の悲しみは深く、何かしら強引に導く手段がなければ親を立ち上がらせることは不可能だと考えたのかもしれない
「賽の河原地蔵和讃」には、そうした子を亡くし嘆き悲しむ親を立ち直らせようとするレトリックが隠されているのだと、私は思う。
そして事実、それは単なるレトリックに留まらず、実際に親を救う手立てになりえるとも思っている。


百箇日は卒哭忌。
涙を卒業する日。
笑顔が故人の供養となる日である。