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禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

一僧侶から見た「お坊さん便」③ ~「お坊さん便」の問題点~

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「お坊さん便」の問題点

これまで「お坊さん便」について2回にわたって考察をしてきた。
1回目は、「お坊さん便」の宗教的有意性。
仏教と縁遠い方々が仏式法要を営む入口となりえる点において、「お坊さん便」にも宗教的意義はあると述べた。
www.zen-essay.com

2回目は、「お坊さん便」に対する全日仏の批判の検証。
「お布施の金額を明記」することで宗教性が失われることを危惧し、「宗教行為が商品化」されている点を全日仏は批判したが、宗教行為のすべてをお布施として捉え、金額を提示しない形式をとることは日本では不可能に近いことを述べた。
www.zen-essay.com



「お坊さん便」を考える上でお布施の問題は切り離すことのできないものとなっており、「お布施とは何なのか」を問うことが「お坊さん便」を問うことにつながる
ただ、この問いは必ずしも布施の原意を訊いているのではない。
「日本において、あるいは現代において、お布施とはどう在るべきなのか」
これこそが、「お坊さん便」を通して問われているお布施の問題であろう。


3回目となる今回もお布施に関することが主題となるが、これは2回目の本質を問うような話ではなく、あくまでも「お坊さん便」の制度に関する話である。
「お坊さん便」が僧侶側から批判を受けている理由の1つに、お布施のキックバックという問題がある。
今回はこの問題について考えてみたい。

お布施をキックバック!?

「お坊さん便」で不可解なのは、35000円がすべてお布施として寺院側に渡るかのように表記がなされている点と、お布施の後に「税込」と明記されている点
「お坊さん便」では、「みんれび」が事務手数料としてお布施から所定の割合の収入を得ている。
それはお布施全体の約4割となっているようであるが、ホームページ上でそのような記載はされておらず、35000円すべてがお布施として僧侶に渡るような表記となっている。


Amazonを介さず、直接「みんれび」に「お坊さん便」を申し込んだ場合、お布施の授受は法要当日に利用者と僧侶との間で直接行われる。
その後、僧侶は「みんれび」に対して所定の割合をキックバックする形となる。
Amazonを経由して「お坊さん便」を依頼した場合は、先に「みんれび」にお布施が渡り、そこから手数料を差し引いた額が僧侶に渡される。


どちらの場合でも金額は約4割ということなのだが、この4割については明確にお布施ではありえない
当然「みんれび」もこれをお布施とは考えておらず、その証拠に手数料として得た収入には税金を払っている。
通常、お布施は非課税扱いとなり課税されない。
ホームページ上でお布施の金額の後に「税込」と明記されているのは、つまりが手数料分にかかる税金ということだ。
35000円の内訳として、お布施と手数料という性質の異なる金銭が2種あることを「みんれび」が認識しているであろうことが、これらの記載から読み取れる。

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内訳のない表記

にも関わらず「お布施は35000円」と記載し、その内訳をあえて伏せているのが解せない。
お布施は6割に相当する額なのだから、すべてがお布施と表記するのは一種の虚偽なのではないか。
35000円の内訳として、15000円は事務手数料で、20000円がお布施と明記するだけで解消する問題であり、それだけで僧侶側からの批判も減ると思うのだが。
現行のままでは「お布施をキックバックしている」と受け取られ批判を受けるのも無理はなく、このシステムには問題があると言わざるをえない。
「定額」という明朗性を謳っているであれば、もう一歩進んで、内訳を明記してもいいのではないだろうか。
「みんれび」は「お布施は何代をいくら包めば良いのか相場がわからず不安」という方のために、定額制をとったとしているが、内訳を伏せている以上、「何代をいくら」という点に関しては完全には答えてはいないことになる。
金の流れが完全に透明化されているわけではないのだ。


現行のまま「お布施は35000円」と表記され続ければ、利用者は35000円のすべてがお布施と考えるだろう。
僧侶もいただいたお布施の一部をキックバックしていることになってしまう。
お布施をキックバックするという発想は、お布施という宗教行為を考える上で非常に問題であり、それはもはやお布施とは言えない。
明朗性、あるいは宗教性から考えて、ここはやはり透明化されていなくてはならない点ではないか
少なくとも、現状の表記では僧侶側からの理解は得られない。

最後に

「お坊さん便」自体に意義はある。
私はそう考える。
そこで行われている行為をシンプルに考えれば、「仏式法要を求めている方のところへ僧侶が赴き、遺族とともに先祖を供養する」という点に尽きる。
実際、これまで僧侶が拾うことのできなかった声を拾っているという点において、「お坊さん便」の意義は大きい。
改善されるべきところが改善されていけば、仏教と疎遠であった方々と寺院とをつなぐ有益な手段となりえるはずである。


ただ、批判を受けても仕方がないとも思っている。
システムそのものにも批判を受ける隙があるが、宗教というデリケートな分野における「新しい形態」というだけでも十分に批判の対象となりえる。
ましてや金が絡んでいる以上、これを万人に受け入れられる形にすることはほとんど不可能だろう。
あらゆる事柄において透明性を高める必要があるのは当然で、それでも理解を得られるかはわからない。
人々と仏教とをつなぐよき手立てであると受け入れられれば、仏教界も批判をするだけではなくなるはずである。
それは一般の方々にとっても、「みんれび」にとっても、仏教界にとっても、喜ばしいことなのではないだろうか。