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一僧侶から見た「お坊さん便」② ~全日仏の批判~


「お坊さん便」に関する全日仏の批判

前回は「お坊さん便」の有用性、すなわち、仏式法要を営みたいと考えながらも伝を持たない方々と寺院をつなぐ宗教的意義について考えた。
今回は、そのような「お坊さん便」の問題点、特に全日仏が批判する点について考えてみたい。


前回をお読みになっていない方は下の記事をどうぞ。
www.zen-essay.com

全日仏の批判

ネットで依頼を受け、僧侶を手配する「お坊さん便」がAmazonから出品されたことに対し、全日仏はどの点をどう批判したのか。
全日仏がAmazonに送った要請文、
「Amazon のお坊さん便 僧侶手配サービス」について (販売中止のお願い)
からは、次の2点を読み取ることができる。

  • 僧侶の宗教行為を定額の商品として販売することに大いなる疑問を感じる
  • 「お布施」を定額表示することに一貫して反対

※要請文の全文はこちらから↓
http://www.jbf.ne.jp/assets/files/pdf/amazon20160304.pdf


つまり、

  • 宗教行為を商品化すること
  • お布施の金額を明記すること

の2点について批判をしたわけである。


「お布施の金額を明記」問題

「お布施は対価ではないため、金額の表示に反対」という全日仏の主張自体に、異論はない。
お布施とは法事や葬儀のお礼ではなく、独立した1つの宗教行為、布施行である
したがって、お布施の金額を受ける側が明記することなど、本来はできようはずもない。


布施というものを論ずるとものすごく長くなるのでここでは割愛するが、要点だけを言えば、布施というのは修行であって、何かに対するお礼ではないという点に尽きる。
※布施の概念について、詳しくは下の記事をどうぞ。
www.zen-essay.com

お布施は財施といって、供物としての財を施す修行行為・宗教行為であり、「ありがとうございます」と言うのであれば、「布施をさせていただいてありがとうございます」という趣旨でなければ正しくない。
「法事をしていただいてありがとうございました」
では対価・謝礼であり、布施とはならない。


そのような財施としてのお布施は、当然、僧侶側から請求するものではありえない。
自分の意志で徳を積むために財施という修行をするから、お布施は布施行という宗教行為になるからである。


金額を表示してしまえば、僧侶側から「これだけの金額をください」と請求していることになり、宗教行為・修行としての布施行には当たらなくなる
全日仏はこの点を批判しており、見返りを求めない布施という宗教行為に金額を定めれば、お布施は対価となり宗教性を失うとして、金額を表示することに抗議しているわけだ。

名ばかりの布施

ただし、葬儀や法事のお布施を、修行としての布施行と同視することは難しいと言わざるをえない。
日本で布施の本義を貫こうとするのは、やや無理がある。


上座部仏教の国々の布施が布施行と成り得るのは、一般の方々、つまり施主が布施を理解し、生活のなかに布施という概念が浸透しているからである。
重要なのは僧侶ではなく、布施を行う側の理解だろう。

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↑ 布施を行じる僧侶と施主


日本のように、布施という概念が社会に存在しない土地で、僧侶側が一方的に布施の宗教性を強調しても、それが空論に聞こえて相手に伝わらないのは当然といえる。
日本の「布施」は人々の生活に根ざす当たり前の行為ではなく、観念として存在しているにすぎないからだ。
しかもその観念すら、一般には知られていない。
お布施が財施なのではなく、「お布施」という言葉の意味を考えると財施なだけで、日本では必ずしもお布施が布施となりえているわけではない


お布施の別名

多くの仏教宗派の本山などでは、読経や法要や納骨、あるいは祈祷などの宗教行為を、金額を定めて「お布施」という言葉以外の名称で表記し提供している
本来であればこれらはすべてお布施の概念と同様に「お志で」とされてもよいものであるが、名称はお布施ではない。


全日仏の主張では、宗教行為に金額を定めれば単なるサービスとなり宗教性を損なうのであった。
それならこれら本山の行いは一体何なのか。
Amazonに向けたはずの矛先は じつは二手に分かれており、一方は自分たちの側にも向いているように思える。


たとえば浄土真宗本願寺派の本山本願寺でも、ホームページ上で読経等の金額を明記している。
懇志という言葉があることから、このお金が「お気持ち」「お志」と同じ意味での寄付であることがわかり、「お布施」と同様のものであることがわかる。
それでもやはり金額は明記されている。


他の本山でも金額を定めているところは多い。
たとえホームページなどに明記されていなくても、金額を訊ねられればはっきりとした金額を答える本山は多いだろう。

単なる表記の問題なのか?

それらは実質的には「お布施」であるものの、どの本山も「お布施」という名称で金額を提示してはいない
懇志金、読経料、納骨料、祈祷料、永代祠堂料……他にもいろいろな名称が付けられているが、「お布施」とは表記されていない。


やはり「お布施」という名称を付けて金額を提示することには抵抗があるということなのだろうか。
このような方法で問題がないのだとしたら、法事や葬儀もこれを応用すればいいのではないかと、ごく自然に思ってしまう。
つまり、葬儀や法事の「お布施」を「供養料」と表記してしまえばいいのではないか


対価にしてしまうと宗教性が損なわれるという論理は、多くの本山がお布施の名称を変更してそれぞれの表記で料金を提示し、対価としている時点で説得力を失っている。
つまり「みんれび」はこれらの本山にならって、「お布施」ではなく「供養料」と表記することで、「お布施の金額を明記」問題をすり抜けることが可能ということになる。


無論、本質的な問題の解決法ではなく、対価としての意味合いを増すだけだが、現実として本山の多くはそうして対処しているのだから、「対処」としては1つの選択肢になりえる。
一般寺院においても、お布施は金額を定めていないが、永代供養料や納骨堂使用料などの金額を定めているという寺院は多く、それらの名称はやはり「お布施」とは別になっている。


このように考えていくと、現在日本で起きているお布施の金額提示をめぐる問題の根本は、単純に

「お布施という名称を使用するのであれば金額の提示はおかしい」

「金額の提示をするのであれば名称はお布施以外にするべき」

という、布施の本質には関与しないところで勃発しているように見えてくる。
そこに無理に布施の本質論を混ぜ込むからややこしくなるのであって、現状の問題は本質的な話ではないということになるのではないか。


お布施をすべて「供養料」という名称にすべきだというのではなくて、金額を提示するなら「供養料」などの名称を付け、あくまでも「志し」であることが大事だと考えれば「お布施」にする。
現状では、「金額を明記」問題はこのあたりで落ち着いていると考えるのが妥当だろう。


金額を提示するのは、相手への配慮
金額を提示しないのは、宗教性の維持

どちらをより重要と考えるかの違いであって、どちらが正解というわけではない。

布施の本義を主張するとどうなるか

ちなみに、「お布施は対価ではない」という正論は、当然のことながら施す側にも適用される
つまり喪主が葬儀のお礼の意味でお布施を渡していたとしたら、それはもう布施行ではなくなる。


「葬儀や法事をしていただいてどうもありがとうございました。これをどうぞ」
では、すでに対価であり、謝礼である。
それは布施ではない。
「お布施は対価ではない」という言葉を発することで、現行のお布施のほとんどは布施行ではないということが明らかになるという、転倒した結果を招く恐れがこの言葉にはある。


「お布施は対価ではない」
「お布施は布施行という宗教行為」

これら布施の本義を貫こうとする主張は、仏教界においてしばしば見聞きするフレーズであり、正論の最たるものである。
しかし、伝家の宝刀のようなこの言葉によって葬儀や法事などのお布施を「布施」たらしめようとするのは、むしろ諸刃の剣でしかないのではないかと思う
まさにその言葉を用いることによって、お布施が本来の布施ではないことが証明されかねないからだ。


これは托鉢の布施行を説明する際にはふさわしいが、いわゆる「お布施」の説明には適さない
本来の宗教性を残している托鉢でなければ、本来の布施の意味と合致しないのは、当然のことかもしれないが。
※托鉢に関しては下の記事を参考にどうぞ
www.zen-essay.com

「宗教行為を商品化」問題

宗教行為を商品化しているという指摘は、お布施はサービスに対する対価ではないという、金額の表示問題と密接に結びついてる。
何らかの宗教行為に金額を定めれば、それは全て宗教行為を商品化しているということになりえるからだ


たとえば法事を35000円と定めれば、
「35000円で法事というサービスを提供します」
という意味になり、法事が商品化されたことになる。
金額を表示してサービスを売買すればそれは商取引を意味する。
そこでは宗教行為が商品として売られていることになる。


全日仏の主張では「『戒名』『法名』も商品ではない」との一文があり、これはネットを窓口にして戒名を授けることを批判しているのであろうが、同時に、戒名などを授ける際に金額を提示すること自体がおかしいということも意味している
もちろん、位階の違いによって金額を増減して定めることもおかしいことになる。


「100万円で院号を授ける」などという話がネットなどではまことしやかにささやかれているが、いや大声で批難されているが、金額を定めればこれももちろん宗教行為ではなくなる。
戒名の売買であり、完全な商品化だ。
金額を明記すればそれは商取引となる。
商品化させないためには、金額を定めず、お布施として受け取る以外に方法はない。

金額を定めるのは妥当か

けれども、すべての宗教行為に金額を定めないというのは、これもまた現実的には無理な話である。
先の本山の事例のように、金額を定めなければ人はそれを買おうとする際に非常に不安になる。
「時価」と書かれた寿司ネタを頼むのができないのと似たようなものだ。


だからあえて金額を表示する寺院は少なからず存在する
そしてそのような方法を採る寺院は、それだけで批難を受ける道理はない。


確かに金額を定めれば宗教行為から距離をおく結果を生むかもしれないが、寺院や僧侶が一般社会の内側に存在し、生活も何もかもを一般の方々と同じ規則に従って生きる日本において、仏教の理念だけを押し通しても上手くいかないことは往々にしてある。
金銭が関係する事柄は、なおさら。
ごく一般的な経済理念として、宗教行為に金額を定める決断をすることは、日本では必ずしもおかしなことであるとは言えない


要するにそれは、相手への配慮なのである。
金額がわからないまま申込みをする人がいないのは当たり前で、金額の提示がなされていなければ相手は間違いなく戸惑う。
本山がそう考えるように、「みんれび」もまた同じように考え、一般寺院でも同じように考えているのだ。


布施に金額を定めるのは適切ではないが、実質的に布施としての機能(宗教性・修行性)を有していないのなら、いっそのこと名称を変えて金額も明記したほうが親切なのではないか
そう考えた結果が、さまざまな名称での金額表示と見ることができるだろう。


金額を表示すれば、商取引としての性格を有することになり、宗教性は薄れる。
全日仏はそれを批判している。


しかし多くの寺院は、それを理解した上で金額の表示に踏み切っている。
たとえ布施の本義にそぐわず、宗教性を失うことになっても、日本ではそのほうが自然であると判断したからこそ、本山をはじめとした寺院の多くは金額の表示を行っているのではないか。


宗教行為の商品化という問題も、先の金額の明記問題と同様、相手への配慮を第一とするか、宗教性の維持を第一とするかの違いになると言えるだろう。
そうなると、必要なのは批判ではなく、互いの考えの違いを受け入れ、理解し、認め合う、寛容な心であると言えるかもしれない
そもそも寛容であることが、仏教という宗教の特徴ではなかったか。


権威とプライド

宗教行為を商品化しているという問題の本質は、宗教行為に金額を定めているという点に集約されるが、もしかしたら全日仏の指摘は少し別で、Amazonで「お坊さん便」が販売されていること自体にあるのかもしれない。
単純に、「お坊さん便」をネットで買うという行為が、僧侶を「物」のように扱い売買の対象としているとして、失礼なのだと、ただそれだけを言っているのかもしれないという意味である。


試しにお坊さん便を注文しようとしてネットでクリックしてみたら「在庫切れ」だったという声を聞いたことがあるが、なるほど、確かに「物」のようである。
ネットでクリック。するとお坊さんがやって来る。
手軽で簡単。これが受け入れられないということなのだろうか。


もしそうだったとしても、それはシステム上そうなっているというだけの話で、無論本質的な問題ではない。
ネットでクリックではなく、電話で依頼なら納得するのだとしたら、そんな陳腐な話はないだろう。


ネットの場合でも、表示される言葉が違えば、たとえば「購入する」のボタンが「ご依頼する」になるとか、「在庫切れ」の表記が「ご依頼に添える僧侶がおりません」になれば納得するという話ではないはずである。
僧侶が売買されているというニュアンスがなくなればいいというのは、じつに浅はかな表面的な話でしかなく、問題の本質はもちろんそこではない


ネットでは、「お坊さん便」に反対する激しいコメントも残されている。

「ふざけたことをするな! 僧侶は蕎麦屋の出前ではない! これはやり過ぎ! いったい僧侶を、法要をなんだと思ってるんだ?」

たとえばこのようなコメントも、僧侶をネットで注文すること自体が許せないという心象の現れだろう。
このコメントを残したのは、きっと仏教を大切に考えて下さっている方なのだろうが、僧侶がこの言葉に甘んじたら、仏教の未来はない。
そもそも蕎麦屋に失礼である。


蕎麦の注文をするのも、法事の依頼をするのも、同じようにお願いをするのでなければおかしいだろう。
僧侶への依頼は蕎麦を注文するよりも丁寧にしてもらわなきゃ困ると、僧侶が言い出したらもうお終いだ


「これはやり過ぎ!」とあるが、この言葉のとおり、「お坊さん便」を程度の問題と見る人も少なからず存在するのかもしれない。
つまり、電話での依頼はOKだが、ネットでクリックはいかにも商品扱いで許せない、というような意味である。


こうなってしまうともはや論理の範疇を超えて感情の世界に入ってしまうのでどうしようもなくなってしまう。
「許せない」という感情自体が、寛容を旨とする仏教に反するとか、「許せない」せいで菩提寺のない方々に仏教法要との縁を結ばせないのはおかしいとか、もうそんなレベルの話にしかならない。


この路線での歩み寄りは難しい。
嫌いなものは嫌い、許せないものは許せないと、もはや感情論でしかないからである。
願わくは、本質についての理解を深め合いたい。

まとめ

宗教行為の商品化と、お布施の金額の明記は、僧侶自体が一般社会にとけ込んでいる日本ならではの宗教事情の問題であるとも言える。
日本の寺院は、上座部仏教圏とは異なり、一般社会の経済の枠組みの内側に存在する。
仏教の理念だけでは進まない部分がある。


この理念と現実にどう折り合いをつけるか。
理念だけを叫べば、ひたすら現実から乖離していくのは明らかで、そこにすべての人に仏教の手を差し伸べようとする菩薩行としての仏教の姿はない


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