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一僧侶から見た「お坊さん便」① ~宗教的有用性~


「お坊さん便」は賛否両論

2015年12月8日、Amazonから「お坊さん便」なる商品が出品されて話題になった。
その直後、12月24日に公益財団法人 全日本仏教会(以下、全日仏)が、このサービスへの批判を理事長談話として全日仏の公式サイトに発表。
そして翌年3月に同サービスの中止を求める要請文をAmazonに送付したが、一方でたくさんの批判がブーメランのように全日仏自身にも寄せられることとなった


こうした経緯もあって「お坊さん便」は余計に注目されることになったのだが、これに関して全国の僧侶の方々はどう感じているのか。


世間一般では、僧侶は批判的に捉えていると考えられがちだが、「お坊さん便」への登録を願い出た僧侶も大勢いたように、必ずしも批判の対象となる事業ではないと考える僧侶もいるにはいる
私もその1人である。
一般での反応は賛否両論であるが、僧侶側からもまた賛否両論の「お坊さん便」を、一僧侶の視点から考えてみたい。


株式会社 みんれび

「お坊さん便」は、まるでAmazonが母体になっているサービスかのように勘違いされやすいが、Amazonは窓口でしかなく、これの母体となっているのは「株式会社 みんれび」である。
「みんれび」は2009年に葬儀準備の支援サイトとして設立された。
「お坊さん便」事業を開始したのは2013年。


その後、窓口を増やすための方法を検討し、無形商品である家事代行サービスなどのネット上での販売実績のあるAmazonに着目。
そして2015年12月にAmazonから「お坊さん便」を出品し、法事・法要の際に全国一律定額・追加料金なしで僧侶を手配するサービス「お坊さん便」のAmazonでの発売開始に至った。

「お坊さん便」とは

「お坊さん便」という言葉自体は耳にしたことがあるものの、詳しくは知らないという方もいることと思われるので、そもそも「お坊さん便」とは何なのかについて。

「お坊さん便」とは、

『法事・法要などで読経をしてもらいたいものの、お寺とのお付き合いがない』『お布施は何代をいくら包めば良いのか相場がわからず不安』という方へ、インターネットを通じて、全国へ定額・追加料金なしでお坊さんを手配するサービス
※「みんれび」ホームページより抜粋
であり、原則としてこれを利用できるのは菩提寺のない方に限られ、菩提寺のある方は利用することができない


定額というのは、たとえば法事を行うだけであれば「お布施は35000円(税込)」と確定されているように、費用の明朗性を謳ったものだ。
自宅で法要を行った後に墓地でもお参りをしたい場合はプラス10000円で可能など、いろいろなパターンでの選択が可能となっており、金額は異なるもののいずれも定額となっている。
申込みをした後は、日時・地域・宗派などの確認をし、僧侶の手配が可能となった時点で申込者に連絡が届き、当日、指定された場所に僧侶が直接訪れるという流れである。

「お坊さん便」に感謝

「故人を供養してあげたいと望む遺族がいれば、その人の役に立ちたい」
僧侶であれば誰しもこのような思いを抱いていることだろう。


それが檀家さんであれば事はスムーズに進むが、檀家さんでなければ、まずその声を拾うことが最大の難関となってしまう。
菩提寺を持たない遺族にしてみれば、見ず知らずの寺院に直接相談するなどとてもできず、誰に相談していいかがそもそもわからない


そこに仲介を専門としてくれる人がいてくれれば、遺族・僧侶ともにこれほどありがたいことはない。
「お坊さん便」のような仲介者の出現は、もちろん経済的な理由からこれを歓迎する僧侶もいるだろうが、私はむしろ宗教的な意味において仏教界にとって大変ありがたい存在であると考えている。
今までは仏式法要を求めても届けることができなかった方のところにも、きちんと出向いて供養を届けることができるようになったのだから。


「お坊さん便」というシステムは近年になって登場した新しいものであるが、そもそも遺族と寺院を仲介するという構図自体は昔から当たり前のごとくに存在していた
葬祭業者、霊園管理者、あるいは石材店など、仲介役として動いて下さる方々がいて下さったからこそ、僧侶は菩提寺を持つ人、持たない人、どちらの求めにも応じることができていた。


ただしそれは「直接相談を受ける」というようなアナログな方法を主としており、比較的狭い範囲の相談を受けることしかできないため、当然のことながらカバーできない方も大勢いる。
その方々もカバーしようと考え、ネット上にデジタルなシステムを構築した。
それが「お坊さん便」なのだろう。


システムや方法や姿勢などがどれだけ批判されようと、「故人を供養したいと思いながらもできずに困っている人のもとへ、僧侶が向かうことができるようにしてくれている」という一点において、「お坊さん便」を肯定的に捉える僧侶は少なくないのではないか。
いや、それは肯定的などというものではなく、感謝すべきことであると言ったたほうが適切かもしれない


叩かれている間は、まだマシ

かつて「葬式仏教」と批判されていたものが、仏教離れ・寺離れ・葬儀離れによって、葬式仏教ですらなくなりつつある現代
仏教は人々の生き方に何ら影響を与えることできなくなりつつある。


それは、仏教に内在する力が現代科学に太刀打ちできなくなったからなどという理由では、もちろんない。
物事の理を見抜き、真実を知って安らかに生きることを説く仏教は、「本当に正しいこと」についての智慧であるがゆえに、いつの時代であっても存在意義が消滅することはない。


変わったのは、単に「求められることがなくなった」という人々の意識の在りようだろう。
叩かれているうちが花であり、やがては叩かれることもなくなって見向きもされなくなってもおかしくはない


このような状況にあって、改善しなくては、変革しなくては、と息巻く仏教界ではあるものの、いざ「お坊さん便」のような一般社会のニーズに応えようとする動きが現れると、反射的になのか体質的になのか、これを批判してしまう。


確かに「お坊さん便」にも問題点はある。
ただ、問題点と同時に有用性があることに着目したなら、批判だけで終始することはないはずだ


「お坊さん便」が請け負っている仕事は、本来は僧侶が行っていなくてはならない仕事であると考えることだってできる。
この仲介者がいなくなってしまったら、かろうじて仏教と縁を結ぶことができていた菩提寺を持たない方々はどうなってしまうのか。
まさか切り捨てるとでも言うのだろうか。
そこに困っている人がいるにも関わらず、対案を示さずに中止を要請するのは、はたして仏教と言えるのだろうか。

変わりゆく寺院

このような仏教界の流れのなかで、しかし寺院も変化をはじめているのだという感触は多分にある。
ただしそれは仏教界全体での動きではなく、一般の方々の当たり前の感覚を生き、応えようとする、「個」のレベルでの動きである
個々の寺院ごとで、寺院というのは新しくなっていくのだという感覚を、私は知り合いの僧侶らと交流するなかでとても強く感じる。


「お坊さん便」が登場し、登録を願い出た僧侶らも、きっと葛藤があったはずだ。
それでも最後には登録を希望した。
それは時代を捉えようとし、変わってはいけないものと変わらなければいけないものを見定めようとする判断だったのではないか。


「お坊さん便」は、変わりゆく寺院や僧侶を象徴する1つの事業のようにも見える。
これまで寺院で待つばかりであった法要の依頼を、寺院から出て外でもキャッチできる状態としたという点においてであり、それに賛同した僧侶がいるという点においてである。


「お坊さん便」は、世間で言われているような、ただ「ニーズに合っている」とか「金額が明朗でわかりやすい」という理由のみで受け入れられているだけでなく、宗教的な理由によっても重要な役割をはたしている。
これを述べずして「お坊さん便」を考えることは適切ではないだろう。


「お坊さん便」は、私たち僧侶だけではカバーすることのできない範囲の人々の悩みをカバーする、セーフティネットに近い有用性がある。
これは非常に重要なことであり、見習うべきシステムであると考える。


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