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【禅語】 木鶏子夜に鳴く ~本物の強さとは何か~

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【禅語】 木鶏子夜に鳴く ~本物の強さとは何か~

一口に「強い」といっても、強さにはいろいろな種類がある
一番に思い浮かぶのは筋肉隆々の体躯に象徴される力の強さかもしれないが、たとえば子を守る母の強さだって相当なものだろう。
警察官にとっては痕跡を残さない事件に手強さを感じるだろうし、何をせずともじっと待ち続ける忍耐強さだって1つの強さだ。
挙げようと思えば、頭に思いつく強さの種類はけっこうな数になる。


禅にも何か強さがあるだろうか。
普段、禅と強さはあまり結びつけて考えられることはない。ただそれでも、何か挙げようと考えれば何も思いつかないわけでもない。
次のような禅語は、ある意味で禅の強さを象徴するような言葉であるように思う。
木鶏子夜に鳴く(もっけいしやになく)


直訳すれば「木彫りの鶏が子の刻(午前0時頃)に鳴く」となるか。
木鶏の強さはまさに禅の強さと呼ぶにふさわしいものだと思うが、このままでは意味がわかりづらい。というより、禅問答のようでさっぱりわからない。
なのでまずは木鶏という言葉が生まれたエピソードをご紹介したい。
こんな内容だ。

木鶏のエピソード

昔、中国に闘鶏を育てる名人がいた。
闘鶏とは鶏同士を戦わせる興行のようなもので、つまりが闘牛の鶏バージョン。
そんな名人の噂を聞きつけた闘鶏好きのある国王が、名人を呼び寄せその腕を見込んでこう頼んだ。
「どうか私のために強い闘鶏を育てくれないか」
名人は、おやすい御用だとばかりに快く請け負った。


名人は早速闘鶏の訓練を開始した。
国王は闘鶏が育つのを心待ちにしていたが、気が短い性格なのか、数日経ったころ我慢できずに名人に問いかけた。
「もう闘わせてもよいのではないか」
しかし名人は首を横にふる。
「いえ、まだまだです。ゆっくりお待ちください」


しかたなく国王はもうしばらく待つことにしたが、また数日経つと名人に尋ねた。
「そろそろ強くなった頃合いだろう。闘わせてもよいのではないか」
しかし名人はまた首を横にふる。
「いえ、この鶏はまだ虚勢を張っています。闘わせるには未熟です。もうしばらくお待ちください」


残念な気持ちを隠しきれない国王であるが、名人が言うのだから仕方ない。
しかし我慢ばかりもしてられず、しばらくするとまた同じように鶏のデビュー戦を促すのであった。
それでも名人はなかなか首を縦にふらない。
他の鶏を見ると興奮してしまう
まだ気負いが垣間見られる
満足のいく状態には仕上がっていないのだと、国王の言葉を退けた。


そんなやりとりが繰り替えされ数十日が経過したある日、ついに名人は満足のいく鶏に仕上がったといって1匹の闘鶏を国王に献上した。
どれだけ強くても、その強さを見せびらかしたり自惚れているあいだは本物ではありません。虚勢も威嚇も興奮も気負いも、すべて未熟な心から生まれるものです。
けれどもこの鶏なら大丈夫です。他の鶏の鳴き声を聞いてもまったく動じず、木彫りの鶏のごとくに平然としていられます」
名人の考える「強さ」とは、つまりそのようなものであったのだ。
もっともこの言葉の裏には、権力者の最たる者である国王のあるべき姿を指摘する意図も含まれていたのかもしれないが。

木鶏の強さ

木鶏という言葉が生まれたエピソードは以上で、このことから木鶏とは、泰然自若とした境地、無心の境地こそ本物の強さだという意味を持つ言葉として広まることとなった。
これをもとに、宋代の禅僧である風穴延沼(ふうけつ・えんしょう)が放った言葉が「木鶏子夜に鳴く」である。
木彫りの鶏のように落ち着きはらった心でありつつ、人知れず努力を重ねることのできる人、縁の下の力持ちになれる人をこそ、優れた人と呼ぶのだという禅語である。
誰もが寝静まった子の刻(真夜中)に、人知れず努力を重ねる。
誰からも褒められなくても、自分の役割をまっとうできる。
そんな成熟した精神を指して、風穴禅師は木鶏と賞賛したかったのだろう。


世間には縁の下の力持ちになって、誰かを支える人々が大勢いる。
「成功者」とか「勝ち組」になれる人が優れた人だとする風潮は依然として強いが、禅の考える強者とはそのような人たちを指すのではない。
精神を修め、泰然と生きることのできる人、それこそが本当に強い人なのだと考えた
陰に立ち、自然と縁の下の力持ちとして生きることのできる人こそ、本当の意味で勝れた人なのだと