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【禅語】 水をふみ石をきらうことなかれ - 子どもは体験によって自然を学ぶ -

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【禅語】水をふみ石をきらうことなかれ

小学生だった頃、雨が降りしきるなかを傘もささずに庭に出て走り回って遊んだことが何度かあった。
どうしても雨に打たれる感触を味わいたくて、親に頼んで外に出してもらったのだ。
びしょ濡れになるからやめてと普通親は嫌がることが多いのだろうが、うちの親は少々変わっていて、玄関にタオルを用意して濡れたまま家に上がらなければOKと許してくれた。


言われたとおりタオルを折りたたんで玄関に置き、夏の夕立へ飛び出した。
シャワーを浴びるのとはまったく違う、夏のぬるい雨の感触
木々が水を得るように、雨を浴びた。


そんな経験を誉めてくれる人など誰もいなかったが、道元禅師という禅僧は次のような禅語を残している。


この身心をもって発心すべし、水をふみ石をきらうことなかれ
訳せば、次のようになるだろうか。


「この生身の体で自然を感じ取り、自然に沿った生き方をしなさい。
水を踏む感触を気色悪がったり、石の上を裸足で歩くことを嫌がったりしているようでは、自然を感じ取ることなど到底できない」


「知る」とは体験すること

真実を知るには、自分で実際に体験するしかない。
体験がなければ、真実を知ることはできない。
自然を感じなさいとは、自然に実際に触れなさいということだろう。
その意味で、この禅語は冷暖自知という禅語によく似ている。
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「この身心をもって発心すべし、水をふみ石をきらうことなかれ」という一文を読んだ時、私は自分が雨に打たれた経験をはじめて肯定された気がして嬉しくなった。
渇いた大地に雨が浸みわたり、木々や草花が潤いを新たにする。
雨によって植物が活力を取り戻す感覚がわかると言えば嘘になるだろうが、それでも私は何となく植物にとって雨がどのようなものであるかを知り得たような気がしている。
そしてそれは、実際に雨に打たれるという経験なくしては絶対に持ち得ない感覚であったはずだとも思っている。


子どもが裸足になって遊ぶことや、水で遊ぶことを嫌がる親は多い。
私にも2人の子どもがおり、できれば服を汚してほしくないという感覚を抱くことはよくある。
無駄に汚されるのは、やっぱりちょっとね……。


だがしかし、服が汚れることや、すこし濡れたくらいで風邪を引くのではないかと心配ばかりしていては、子どもは自然に触れることなく成長してしまう。
石の上を裸足で歩いたことのない子は、石を踏む感触すら体験せずに多感な少年期を終えてしまう。
それは服を汚すことよりも、もっと大切な何かを失うことになるのではないかとの懸念が頭をよぎる。


親は子どもを守るのが仕事なのだから、汚れることをさせないのは当然のことだと、人は言うかもしれない。
しかしそれは、本当に子どもを守っていることになるのだろうか。
守ったかのようにみえて、実際は貴重な経験の場を与えなかっただけなのではないだろうか。


子どもを守ることと、経験をさせないことはイコールではない。
それ以上は危険だからとか、何が大丈夫で何が危ないのかを判断するために親は子どもの傍にいるのであって、はじめから子どもに何もさせないのは子どもを守っているのではないだろう


子どもは柔軟である。
何でも吸収していく。
あらゆるものを感じ、学んでいく。
経験は子どもにとって一番の成長の糧となる


だから、
「いい服を着ているから遊ばないでほしい」
「白い服を着ているから汚さないでほしい」
そんな無粋な言葉は子どもに言わないでほしい。


それは大人の都合であって、本当に子どものことを考えた上での言葉ではない
子どもにとっての「いい服」は、高いブランド物の服ではない。
気兼ねなく自由に汚すことができ、思いっきり遊ぶことのできる服が、子どもにとっての「いい服」である。
世界を感じることを邪魔しない服が、子どもにとっての「いい服」である。


「水をふみ石をきらうことなかれ」
この禅語は、あらゆる人に向けられて発せられた言葉である。
だがとりわけ、子をもつすべての親に知っていただきたい言葉である。


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