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禅の視点 - life -

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現代語訳『般若心経』③ - 摩訶般若波羅蜜多心経という経題の意味 -

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摩訶般若波羅蜜多心経という経題の意味

般若心経の種類

私たちが普段『般若心経』と呼んでいるお経の経題(タイトル)は、各宗派によって若干の異なりがあるものの、『摩訶般若波羅蜜多心経』または『仏説摩訶般若波羅蜜多経』などと呼ばれている。
『般若心経』には現存するものだけで7種類ほどの訳が確認されており、訳した人物の名を冠して「鳩摩羅什訳(くまらじゅうやく)」「玄奘訳(げんじょうやく)」などと区別されている。
日本で普及している『般若心経』は、このうちの「玄奘訳」と呼ばれるものになる


『般若心経』は、600巻にも及ぶ『大般若経』のエッセンスであるともいえるが、262文字という凄まじいまでの圧縮率によって凝縮されているため、一通り読んだだけでその意味を理解することは不可能であると言わざるをえない。
ただそれでも、『般若心経』を知ることは般若経典類の中心的概念を知ることであり、それは仏教の中心を知ることでもあるため、昔からこれを学ぶ意義は大きいと考えられてきたというわけだ。


ちなみに、『般若心経』を「わずか○○文字の」というふうに言うことがあるが、その文字数には人や本によって微妙に違いがある。
私はこの○○を262文字としているが、これは経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」と、末尾の「般若心経」を抜いた、本分のみの文字数である。
したがって、末尾を足せば266文字であり、さらに末尾を「般若波羅蜜多心経」とする宗派の方が末尾を足せば、270文字になる。
これに経題を足せば、さらに文字数は増える。
人によって数字が微妙に異なるのは、文字数を数え間違っているからではなく、どこまでを文字数としてカウントしているかの違いによる。

摩訶般若波羅蜜多心経の意味

訳の意味について述べていくが、内容に入る前にまずは経題の意味について知っておく必要がある。
すなわち、『摩訶般若波羅蜜多心経』という言葉が、そもそも何を指しているのか。
これを知るだけで、おそらく『般若心経』が何を伝えようとしているお経なのかが理解できると思われる。


『摩訶般若波羅蜜多心経』は次のように分解することができる。
摩訶・般若・波羅蜜多・心・経
それぞれの言葉の意味を簡単に記せば、
摩訶:偉大
般若:智慧
波羅蜜多:完成
心:要
経:教え
となる。
そして、これらの単語をつなげると次のような文となる。
「偉大な智慧の完成にいたる肝要を説いたお経」
『摩訶般若波羅蜜多心経』は「偉大な智慧の完成にいたる肝要を説いたお経」なのである。

直訳と現代語訳

これは一応現代の言葉で訳されているから現代語訳ということもできることはできるが、どちらかと言えばぶっきらぼうな直訳に聞こえる。
この訳を読んで、「ああ、なるほど、偉大な智慧の完成にいたる肝要を説いたお経ね」と、言葉の意味内容まで理解できれば何も問題はないのだが、果たしてそうなるかどうか。
実際、学びはじめた頃の私には到底不可能であった。
したがって、次の工程としてこの直訳を「わかる言葉」でさらに訳す必要があると私は考えている。
それが私のいう「現代語訳」である。

摩訶

まずは一つひとつの言葉の意味を確認しておこう。
はじめの言葉「摩訶」であるが、これは「大きい」「優れている」「偉大」というような意味で、特に深く考える必要はない。
そもそも「玄奘訳」に「摩訶」の文字はなく『般若波羅蜜多心経』とあるだけである。
「摩訶」というのはいわゆる接頭語であって、尊称の目的で冠したにすぎない。
内容とはあまり関係がない。

般若

般若とは智慧を意味する。
通常、「ちえ」という言葉には「知恵」という漢字が当てられる。
この知恵と智慧の違いが、般若という言葉を知る上で重要となる。


一般的な「知恵」は、頭がいいというような言葉に代表される、いわゆる知能を指している。
頭がはたらく、いいアイデアが浮かぶ。
そういった頭のはたらきが「知恵」である。


一方、「智慧」はそれとは意味合いが異なっている。
以前、「禅語エッセイ」のカテゴリーで「冷暖自知」という禅語を扱ったが、そこで「本当に物事を知るとは、自らの体験としてそれを知ることである」というようなことを書いた。
「智慧」が指すものはまさにその「体験としての知識」だと思っていただきたい。
物事を詳細に分析していくのが「知恵」だとしたら、「智慧」は全体を感じ取るような物事の理解である。
そして『般若心経』で感じ取るべきとされる体験としての知識とは、「空」を指している。
「空」についてはここでは詳述しないが、『般若心経』は「空」を説くお経であり、その「空」を真に(体で)理解することが「智慧」というわけだ。


ちなみに余談ではあるが、私は最初に般若という文字を見たとき、真っ先に般若のお面を想像した。
般若とはあのお面のことなのだろうと。
だがこれは全くの間違いで、あの角の生えた恐ろしい表情のお面とここでいう般若とは何も関係ない。
般若のお面に般若という言葉が付いているのは、単にあのお面を作ることが得意だった彫り師が、般若坊と呼ばれていたことに起因している。
「智慧」という言葉の本来の意味においては、何も関係ない

波羅蜜多

波羅蜜多とは「パーラミター」というサンスクリット語の発音に似た音の漢字を当てはめただけの、いわゆる音訳であるため漢字に意味はない。
これを音訳ではなく意訳にすると、「完成」というような意味になる。
似たような意味合いになるが、これを「到彼岸」と訳す場合もあり、向こう岸に渡りきることが波羅蜜多という言葉の原意だとも言われている。
あまり難しく考える必要もないので、ここでは「完成」という意味として理解しておくとしよう。
「般若波羅蜜多」で、「智慧の完成」となるわけだ。

心という漢字には、いくつもの意味がある。
私たちが何かを感じたりするはたらき。
一番の大もと。
想い。考え。
あるいは魂。
気持ちや心持ち。
それらのどの意味をとって『般若心経』の「心」としているのかと言えば、はっきりとは決められない。
むしろ、決める必要もないのかもしれないと思っている。
どれを当てても、間違いだとは思えないからである。


ただ、今回の訳では、「中心」「要」という意味でこの「心」という言葉を訳させていただいた。
それが正しいというのではなく、一つの訳として認識していただきたいと思う。

「経」とはお経であるが、これは本来「縦糸」を意味する言葉であった。
縦糸とは、個と個を繋ぐ糸のことである。
数珠を想い浮かべていただきたい。
見えはしないが、いくつもの珠を結んでいる紐が数珠にはある。
あの紐のように、個と個を繋ぐ役割を果たすものが「縦糸」であり「経」であった。
個とは、お経のなかの一つひとつの言葉である。
それらを結ぶ一本の糸。
それがつまり「経」である。


後に、「経」という言葉は結んだもの全体を指すように変化し、今ではお経と言えば言葉の集まったもの全体、つまりが『般若心経』であれば『般若心経』とうお経全体を指す言葉となった。

摩訶般若波羅蜜多心経という経題の現代語訳

以上が『摩訶般若波羅蜜多心経』という経題に含まれている個々の言葉の意味である。
改めてこれをつなげてみると、
「偉大な智慧の完成にいたる肝要を説いたお経」
となる。
さきほどと何も文面は変わっておらず相変わらずの直訳であるが、それでもこの言葉から受ける印象はさきほどとは少し違っていないだろうか。
もし違っているとすれば、それだけ般若(智慧)に近づいた言えるのかもしれない。


そしてこれを私は現代語訳として、「存在が存在することの意味を説いたお経」とした。
一見すると、摩訶も般若も波羅蜜多も心も含まれていないようにみえる。
これで本当にいいのか?
いいのだ。
この訳はつまり、「偉大な智慧の完成にいたる肝要」=「空」であると考え、「空」=「存在が存在することの意味」とした上での現代語訳である。
単純な言葉の意味よりも、その言葉が結局何を言わんとしているかに焦点を当てた訳と理解していただきたい。
そのほうが、「空」を説く『般若心経』の雰囲気がより感じられるような気がするのだ。
まあ、人の数だけ訳があっていいのだから、自分にとってもっとも腑に落ちる訳を自分で考えてみるのが一番なのかもしれないが。