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「観光」って、何で「観行」じゃあないんだろう? ~身近な仏教用語~

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【観光】身近な仏教用語の意味

福井県の観光名所といえば、大本山永平寺
私はここで1年間修行をしていたが、秋の行楽シーズンには最大で2万人もの方々が訪れたこともあった。
樹齢700年ともいわれ、天を突くようにそびえる杉の巨木。
鮮やかな朱色に染まる楓の葉。
そしてその背に佇む古刹の門構え。
秋の永平寺は確かに、格別な美しさと趣きが感じられる。


「観光名所だなんて言われてるけど、あそこは修行道場なんだから、観光じゃなくて参拝でなきゃダメなのでは?」
「観光じゃあ、いかにも遊びに行くようなニュアンスだから、やっぱり参拝のほうがふさわしい」
そんな意見を耳にすることは多い。
もっともらしい意見に聞こえるのだけれども、じつはこれ、ちょっと早計であるとも言える。


観光という言葉は、そもそも「遊び」を指しているのだろうか?
字をよく見ていただきたい。
「光を観る」と書いて、観光である。
光って何? 観るって何?
もし観光が「遊びに行く」という意味の言葉なのだとしたら、「観行」と書いた方が合っているように思われないだろうか。
なぜ「行」ではなく「光」なのか。
参拝が仏教用語であるように、観光もまた仏教用語なのだ。


観光という言葉の一般的な解釈は、旅行をして景色などを見物すること。
光という言葉には色々な意味があり、明るさ・彩り・恵み・勢い・美・景色などを表すために用いられることがあるが、観光と書いた時の「光」は、「風光明媚」という意味での光なのだろう。
つまりが「美しい景色を観る」という意味である。
それが一般的な観光という言葉の解釈。


ただ、もともとの意味はちょっと違う。
観光とは観音菩薩の光を観ることだとも言われているが、光とは真理のことで、本当に正しいことをはっきりと観るという行為が、仏教用語としての観光の意味
正しく物事を観ない状態を仏教では「無明」とよんだりもするが、光はその対極に位置する仏の智慧の意味である。
仏閣に赴き、本尊さまに手を合わせ、正しく生きようと祈る。
その行為がまさに観光なのだ。
これを知ると、「永平寺に観光に行く」でも「永平寺に参拝に行く」でも、どちらでも間違いではないことが腑に落ちるのではないだろうか。

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仏教用語としての「遊ぶ」

ちなみに、「永平寺に遊びに行く」という言葉も、考えようによってはこれも間違いとは言えない。
「いや、それはさすがにダメでしょ」
と思われるかもしれないが、そうでもない。
たとえば遊歩道とか、遊覧という言葉があるが、「遊」にもまた仏教用語としての意味がある
遊歩、遊覧と言えば、通常では「あたりを眺めながら歩くこと」を指すが、もともとは修行僧が自己研鑽のため、あるいは人々に教えを広めるために諸方を歩いて回った行為を指す。
遊行という言葉はまさにその意味であり、本来の意味のまま現代でも用いられている。
遊歩、遊覧も、遊行と同じ意味の言葉であったのである


ほかにも遊化、遊戯という言葉がある。
どちらも同じような意味で「仏や菩薩が人々を救う様子」を表した言葉であるが、なぜ「遊」なのか。
それは、「人を救っているんだ」という慢心を抱くことなく、あたかもさらりと当たり前のことをするかのように振る舞った行為が、とりもなおさず人々の救いになっているという意味を含ませて、「遊」と書く
仏や菩薩にとって人々を救うこととは、子どもが遊び呆けるくらい当たり前のものであるということである。


「遊ぶ」という言葉でさえ、ただ遊ぶことだけを意味するのではない。
観光もまた然り。
言葉の奥には広大な世界が広がっている。
表面的に解釈すれば違うと思われることでも、ずっと掘り下げて考えていくと、あながち間違いでもないんだなあ、ということは結構ある
観光や遊ぶという言葉は、その典型的な例の1つだろう。