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「懐石」って仏教の言葉だったの? - 身近な仏教用語 -

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【懐石】身近な仏教用語の意味

懐石料理という文字を見て疑問に思ったことはないだろうか。
なぜ「ふところの石」と書いて食事を指すのか。
石は、食べ物ではないだろう。
じつはこの懐石という言葉は、仏教から生まれた仏教用語なのである。
そこで今回は「懐石」の語源について。


そもそも懐石料理とは、茶道において茶を美味しく味わうために、茶をいただく前に出される軽食のことである。
懐石という言葉がすでに食事という意味を含んでいるため、本来であれば懐石と表記するだけでそれが食事であることを表しているが、料理という文字を補うことが一般かしつつある。


それはおそらく、懐石と同じ発音をする会席料理との混同に主たる原因があるのだろう。
会席に食事という意味は含まれていないため、これには「料理」を付ける必要があった。
すると「カイセキ料理」という言葉をよく聞くようになり、耳に馴染むようになる。
そうなってしまうと、懐石をいただく際にも「料理」を付けないと、言語感覚の上ですわりが悪い。
結果、懐石にも料理が付けられるようになったという具合だ。
つまりが、懐石と会席の混同というわけである。


そんな会席料理は、懐石料理と発音は同じであるが料理自体は全くの別もの。
この会席料理とは早い話が宴席料理のことで、俳人が句会を催した後で楽しむ食事が起源だとされている。
会席とは、連歌や俳諧の席のことなのだ。
茶ではなく酒を美味しくいただくための料理であるため、会席料理には厳しいマナーなどはない。
結婚披露宴などで振る舞われるあのような食事が、会席料理の典型だと考えていただければわかりやすいのではないか。


さて、懐石と会席の違いはこれくらいにして、本題である「懐石」の語源について。
この懐石という言葉は、もともとは仏教のおいて用いられていた仏教語であった。


話は原始仏教の頃にまで遡る。
今でもそうであるが、インドの仏教徒は、食事を日に2回しか摂らなかった。
午前中に托鉢に行き、そこで施された供物を皆で分配し、昼食としていただいたらもう1日の食事は終わりになるのである。
なので食事は朝と昼の2回
昼を過ぎたら、次の朝まで何も食べなかった。


しかし、仏教がインドから中国へ伝えられると、この食生活では問題が生じた。
インドよりも寒い中国では、摂取エネルギーが少ないと寒さが身にこたえるのだ。
特に冬場の寒さは猛烈で、厳しい修行を続けていた修行僧たちは空腹と寒さに相当苦しんでいたという。


そこで、この状況をどうにか改善しようと考えられた末に生まれたのが、「薬石」というものだ。
薬石とは温めた石のことで、修行僧らはこれを懐に入れて暖をとるようにしたのである。
温かい石で夜の寒さに耐え眠りに就き、また空腹を紛らわすという応急処置が行われるようになったというわけだ。
今でいう湯たんぽのようなものだろう。


ただ、薬石がありがたいことに違いはないのだが、エネルギー不足問題は解消されない。
病に倒れる僧もいたことだろう。
昔の書物には「本気で仏法を求める気持ちさえあれば、寒さなど問題にならないはずだ」というような言葉が散見されるが、極度な飢えは苦行でしかない。
ブッダの教えは、享楽と苦行を離れて中道を歩むことであった。
インドとの気候に違いがあるのなら、それに関わる事柄で変革すべきものは変えていくべきである。


そこで、この薬石に大変革が起きた。
飢えを紛らわすという意味を踏襲し、薬石という名前の、軽い食事を摂るようになったのである。
温かい石を指す言葉から、夕食を指す言葉へと、言葉はそのままに内容だけが変化をしたのだ。
ちなみに永平寺などの修行道場では、夕食は今でも薬石と呼ばれる。
温かい薬の石から転じた軽食を、薬石としていただいているのである。


もう察しはついているかと思われるが、懐石とは、修行僧らが懐に入れていたこの薬石のことである。
薬石という名前のままでもよかったのだろうが、茶の湯ではこれを懐石と称した。
茶を喫する前に出される空腹をしのぐ程度の軽い食事を懐石と呼ぶのは、薬石が同じような目的で修行僧に振る舞われていたからだ。
あくまでも正式な食事ではなく、空腹をしのぐ程度の軽食とされるのはこのような理由による。
懐石とは、仏教における薬石の別名なのである。