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十牛図に秘められた悟りの諸相 【廓庵師遠版】(後篇)

十牛図に秘められた悟りの諸相 (後篇)

前篇に引き続き、十牛図を読み解いていきたい。
後篇は第六よりはじまるので、前篇を読んでいない方は先に十牛図の前篇を読んでから、この後篇を読んだほうがわかりよいように思う。
下の記事が前篇なので、未読の方はこちらを先にどうぞ。

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それでは十牛図の続きに移ろう。


第六 騎牛帰家(きぎゅうきか)

十牛図、騎牛帰家
牛に乗って家に帰る。
自分を探し当てて、旅から戻る。

干戈已に罷み、得失還た空ず。
樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。
身を牛上に横たえ、目は雲霄を視る。
呼喚すれども回らず、撈籠すれども住まらず。

自分を探すための自分との戦いは終わった。今になってはじめて、牛を得ることも失うこともない道理を知った
きこりの歌を口ずさみ、笛でわらべ歌を吹き奏でる。
牛の背中にのんびりと横たわり、視界に広がる大空を眺めた。
誰に呼びかけられても振り向くことはなく、引き留められても止まることはないだろう。

牛に騎って迤邐として家に還らんと欲す、
羌笛声々、晩霞を送る。
一拍一歌限り無きの意、
知音何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん。

牛の背に乗って悠々と家へ帰る。
遊牧民の奏でる笛の音が夕暮れの空に響き渡っている。
その一音一音に真実が宿っていることも、今ならわかる
探しあてた自分自身に、あえて説明などせずともこの心境は伝わるだろう。

第七 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)

十牛図、忘牛存人

牛を忘れて、ただ人だけがある。
自分は自分であることを知り、自分を求めることがなくなった。

法に二法無し、牛を且く宗と為す。
蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす。
金の鉱より出づるが如く、月の雲に離るるに似たり。
一道の寒光、威音劫外。

自分という真理は一人しかいない。牛を用いたのはただの喩えだ
兎を捕らえる罠のように、魚を獲る網のように、牛を捕まえることを主題としてきた。
ついに見つけた自分という存在は、あたかも鉱山から採掘された金のごとく、雲の切れ間から現れた月のごとく光輝いている。
解き放たれた一筋の光は、過去の仏よりもさらに昔から輝き続けている。

牛に騎って已に家山に到ることを得たり。
牛も也た空じ人も也た閑なり。
紅日三竿猶お夢を作す。
鞭縄空しく頓く草堂の間。

牛の背に乗って家に帰ってきた。
自分のほかに自分はいないというあたり前の真理に気付き、この自分こそが探しもとめていた自分であることを知り安堵した
赤く燃える太陽が高い竿よりもさらに高く空へと昇ったが、心はまだ夢のなかのよう。
もはや牛を飼い慣らすための鞭や縄は無用の長物となり、小屋のそばに放ってある。

第八 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

十牛図、人牛倶忘

人も牛も忘れ去る。
自分から解き放たれ、悟りさえも忘れ去ったまっさらな境地。

凡情脱落し、聖意皆な空ず。
有仏の処遨遊することを用いず、無仏の処急に須く走過すべし。
両頭に著せずんば、千眼も窺い難し。
百鳥花を含むも、一場の懡羅。

ありもしない自分を探す迷いが消え、悟りを求めることもなくなった
悟りの世界に執着する必要はなく、煩悩の世界も足早に通り過ぎてしまえ。
悟りにも煩悩にも関わることのない心は、千眼観音の眼をもってしても見つけ出すことはできないだろう。
悟ったことを見破られるなど、恥ずべきことだ。

鞭索人牛尽く空に属す。
碧天寥闊として信通じ難し。
紅炉焰上争でか雪を容れん。
此に到って方に能く祖宗に合う。

牛を繋いでいた綱も、修行のための鞭も、人も、牛も、すべては空(くう)であった
青く澄み渡った大空のように、あらゆる存在はあるようでない。
赤々と燃える炉の上にはらはらと雪が舞い落ちてきても、一瞬のうちに跡形もなく溶けてしまうように、そこには何も存在しない。
この境地に至って、ようやく祖師方の精神に触れることができる。



第九 返本還源(へんぽんげんげん)

十牛図、返本還源

原初の自分に還った。
花はただ美しく、花以上でも以下でもない。

本来清浄にして、一塵を受けず。
有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。
幻化に同じからず、豈に修持を仮らんや。
水は緑に山は青うして、坐らに成敗を観る。

汚れて見えるのはいつだって表面で、中核の本性には塵一つ付くことはない。
慌ただしい世相は表面の諸相で、心は穏やかな境地に佇む。
しかしそれは逃避ではなく、空虚な幻の世界でもない。
飾る必要も取り繕う必要もない。心のままにいればいい。
小川を流れる水は清く、山は緑に映えている。自然はそのままで美しい
ただここに坐ってそれらを眺め、万物をありのままに見つめよう。

本に返り源に還って已に功を費やす。
争でか如かん直下に盲聾の若くならんには。
庵中には見えず庵前の物 。
水は自ずから茫茫、花は自ら紅なり。

自分を探し、自分を得て、自分が消え、自分に戻るまで、ずいぶんと歩いてきたものだ。
眼が見えなければ色に騙されることはなく、耳が聞こえなければ音に惑わされることもなかった。外界に心がとらわれなければこんなことにはならなかった。
家の中にいれば外のことはわからないのだから。
しかし外に出てみて、水の清さを知り、花の紅なることを知ったのであったか

第十 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

十牛図、入鄽垂手

気ままに町へと向かい、人と接する。
この世界を生きて、人を導く。

柴門独り掩うて、千聖も知らず。
自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負く。
瓢を堤げて市に入り、杖を策いて家に還る。
酒肆魚行、化して成仏せしむ。

自分についてはもう了じた。どんな聖者もこの心を伺い知ることはできない。
悟りさえもすっかり忘れ去り、気ままに歩き出した。
町で人と接し、疲れたら家へと帰る
居酒屋や魚屋も訪れ、人を感化させて導く。

胸を露にし足を跣にして鄽に入り来る。
土を抹し灰を塗って笑い腮に満つ。
神仙真秘の訣を用いず。
直に枯れ木をして花を放って開かしむ。

高貴な姿をする必要はない。自然なままで町へと向かう。
土にまみれ、埃にまみれ、汗にまみれ、日々働きながら生きる人の世に入り、いつも笑顔でいる。
神や仙人の神通力など要るはずもない。
人と接することで、枯れ木であっても花が咲く


所見

十牛図を読んで、どう思われただろうか。
禅の悟りとはどのようなもので、何を重要と考えているのかが、何となく摑めたような感覚を覚えたのではないだろうか。
おさらいとして、もう一度通して振り返ってみたい。


まず、十牛図のストーリーは牛を探すところからはじまった。
牛とは自分のことで、近年流行っているいわゆる「自分探し」のようなものだ。
そうして森の中へと入り、やがて牛の足跡を見つける。自分を知ろうとして、勉強なり努力をして、自分というものについての知識を得た状態となる。
努力を続けると牛の見つけることができ、自分という存在の後ろ姿が見えてくる。これを何とかして得ようと試み、どうにか自分というものを摑む。
しかし自分はまだ落ち着いてはおらず、これを手懐けるために修行をする。確固たる自分を摑もうとする。


自分を摑むとは、自分を探すこの自分のほかに、真実の自分などというものは存在しないことを知ることでもある。
探し物ははじめから手の中にあった。自分の手で握りしめていただけだった。それを知ることが牛を得るということでもある
そうして得た牛とともに、今度は家へと帰る。
この段にいたって、牛はもはや逃げも隠れもしない存在となる。


家に着くと、牛のことなどすっかり忘れてしまう。
自分ははじめから自分であったことに気付き、牛はただの概念でしかなかったことを知る。
そしてさらに、牛が概念であれば、自分もまた概念でしかない事実を知り、すべてが空(くう)である真実にたどり着く
真っ白な円だけの世界が表現され、あらゆるとらわれや執着から離れた心境が開ける。


ちなみに、空の概念を詳しく知りたい方は、空について説いた経典である『般若心経』の訳を一度読んでいただければ理解の助けになるかもしれない。
興味のある方は下の記事をどうぞ。
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存在が空であることを知り、牛や人といった概念が消え失せると、存在するのはありのままの世界だけになる
誰かによって意味付けされたり価値が付けられたりした世界ではなく、あらゆるものが「ただの存在」でしかない世界が開ける。
他者によって定められた高級とか低級とかといった相対的な価値判断のない、自分に立脚する絶対の世界を生きるようになる。
そこに至って、ものごとは原初の姿を得る。花はただ、花であることに気付く。


あらゆるものの姿が自然の姿そのものを表現し、真理を説き尽くす姿を見て、これ以上ほかに求めるものは何もないことを理解するが、それでも十牛図はまだ終わらない。
最後の1枚が残っている。
最後に、世間へと入っていくのである
原初の世界を知ったなら、そこに留まるのではなく、そこで知り得たことをもとに迷いのなかにいる人を導くことを最後とするのである。自分一人のことで終わるなと。
人と接して、人の世を生きて、苦楽をともにして生きていくことが、十牛図におけるラストーシーンというわけだ。


ぐるっと一回りして、はじめと同じ位置に戻ってくるように十牛図は描かれている。
しかし牛を探しに出たはじめと、最後は、同じ位置でありながら同じ位置ではない
それはあたかも螺旋階段のようなもので、二次元でみれば同じだが、三次元では異なる高さに立っているようなものである。
次元を増やし、同じ場所に帰ってくるというのが、十牛図の一回りということなのだ。