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【禅語】直心是道場 ~心によって道場が現れる~

直心是道場

【禅語】直心是道場

直心是道場(じきしんこれどうじょう)という禅語を目にすると、なんとなく思いだしてしまうのが、ノートルダム清心学園理事長を務めておられた故・渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』。この「置かれた場所で咲く」という言葉に、私はいつも直心是道場を重ねてしまう。


そもそも直心是道場という禅語は、あの名高い維摩居士の言葉として『維摩経』に登場するものである。次のような話だ。


ある時、光厳童子(こうごんどうじ)という若者が、修行に適した静かで清らかな道場を求めて、喧騒な城下町から外に出た。するとたまたま向かいから、城下町へ入って行こうとする維摩と出会った。


そこで童子が「どちらから来られましたか?」と維摩に声をかけると、維摩はこう答えた。


「道場から来たよ」


光厳童子は驚き、その場所に行きたいと思って「どこの道場ですか? その道場はどこにあるのですか?」と訊ねた。すると維摩から帰ってきた一言が、


直心是道場


どこかにある建物とか、修行に適した道場とか、そういう所から来たのではなくて、直心で修行するところが道場なんだよ、という維摩の返し。これが直心是道場という禅語のエピソードである。


直心とは、執着や分別を離れた浄らかな心のこと。これがいいとか、あれは嫌だとか、そういった執着分別を離れた直心で生きるとき、どこであってもその場に仏道の道場が現成しているというのが、直心是道場という言葉の意味である。


言い換えれば、自分に合う道場なんていう建物を探していると大きな間違いを犯すぞ、という警告でもある。道場という専門の場所があるのではなくて、直心で生きるとき、そこが道場となっている。心次第でどこであっても道場になり得る。場所に捉われると最初の一歩目から正反対の方向へ進んでしまいかねない、ということ。


もし、静かで落ち着いて修行のできる快適な場所を見つけたとしても、それは結局自分の都合に合致した場所を見つけたというだけの話で、欲と執着の域を出ない。道場が真に道場となり得るかは、その人の心次第であるというのが、直心是道場という禅語の要である。


だから、場所というのはどこまでも「ただの場所」に過ぎない。そのただの場所を仏の心で生きたなら、そこが仏の道場になる。修羅の心で生きたなら、修羅の道場になる。餓鬼の心で生きたなら、餓鬼の道場になる。だから仏道も修羅道も餓鬼道も、どれもおなじ道場から生まれる


禅の道場であるかどうか、それを決めているのは自分の心であるというのは、まさに修行の核心を突いた一言だ。


ただし、それなら心さえ正しければ場所はまったく関係ないのかといえば、禅ではそうとも考えない。


たとえば「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」という禅語がある。

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これは、身を寄せている環境からは知らず知らずのうちに影響を受けてしまう、という意味の言葉である。人間はどうしたって善くも悪くも周囲の環境から影響を受けるため、場所は関係ない、とも言い切れない。


事実、「置かれた場所で咲きなさい」と言われても、種が置かれたのがアスファルトの上だったなら、いくら努力したところで咲くことなどできない。たまにニュースになる「ど根性だいこん」とか、アスファルトの間から育つ植物がいるが、あれはあくまでもアスファルトの裂け目や、コンクリートとの隙間など、運良く土のある部分に落ちた結果であって、アスファルトの上で育ったわけではない。環境をまったく無視して精神論だけで咲くことはできない。


ではこれら2つの言葉は、矛盾しているのか。どちらかが誤りなのかといえば、そうとも思わない。これら2つはどちらも大切な真実を示している。


環境と心は、修行を適切に進めるために必要な、いわば両輪なのである。場所にこだわり過ぎる人には「直心是道場」。心にこだわり過ぎる人には「覚えざるに衣湿る」。こだわりとは執着であり、執着それ自体が修行の障壁にほかならない。


どこもかしこも「ただの場所」。禅の道場といわれる永平寺も「ただの場所」。永平寺が修行道場となり得るかは、その人の心による。心なくして永平寺で修行したところで、なんともならないのは道理だろう。


心と環境の二輪を転じ続けることができれば、そこにはきっと素晴らしい道場が開ける。建物の見た目の話ではない。建物の話ですらない。足の裏の話である。どのようにして生きるか、その一歩一歩自分の足の裏に道場がある。だから禅では「歩々是道場(ほほこれどうじょう)」とも言う。


禅の言葉は誠に面白い。