禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

【禅語】 慈愛 - 恋と愛の違い -

慈愛,恋愛,愛と恋の違い

【禅語】慈愛(じあい)


誰かを好きになったり誰かに恋をしたりすることと、誰かを愛することは、似ているようでまったく違うこと。


人を好きになると、相手も自分のことを好きでいてくれることを望むようになる
「恋が叶う」とは、まさにその望みが叶った状態をいった言葉だ。
いわゆる両想いのことである。


願う恋が叶わなければ悲しむだろうが、叶えば叶ったで、今度はその恋が壊れることを恐れるようになる。
相手がいつまでも自分のことを好きでいてくれなければ許せなくなる。


つまり、好きとか恋とかいう気持ちは、人を愛することのようにみえて、本当は自分が愛されることを強く望む心のはたらきだということ。


恋の根底にあるのは「自分が愛されたい」という思いであるとして、問題は「じゃあ愛って何なの?」という、愛のほう。
愛も誰かを愛することなのだから、好きとか恋とかと同じじゃないのか。


いいえ。
同じにみえて、それがじつはまったくの別物なのである。


愛と恋の違い


愛とは、人を愛して、それで完結してしまう心のはたらき
自分が愛されることを望むのではない。


ただ、人を愛する。
それでおしまい。
なぜなら「愛する」とは、文字どおり「愛する」ことだから。


愛する。
それが愛の本当の意味であって、愛することの見返りを求めるような愛はすべて自己愛と言わざるをえない
それは本来の「愛」ではない。


だからたとえば、壊れるような愛は、そもそもはじめから愛ではなかったということ。
愛とは自分が施すだけのものだから、壊れようがない。
壊れる愛の一番奥底にあるのは、相手を想う気持ちではなく、自分を愛する想いなのである。


「愛が冷める」


「愛想を尽かす」


そんな言葉も時折り耳にする。


しかし冷静に考えてもみたい。
その愛は、一体誰に対する愛だったのか。


相手を愛する気持ちを指しているのか。
相手を愛する気持ちを失ったという意味なのか。
おそらく、本心はそうではないはずである。


愛が冷めたのは、その人と一緒にいても自分が幸せになれないと判断したから
愛想を尽かしたのは、その人を愛することよりも自分が愛されることのほうが重要だったから
そうではないか?


そのあたりの感覚というのは、自分のことであってもなかなか気付きにくいもの。
相手を愛しているかにみえて、本当に愛していたのは自分だった
その事実に、私たちはなかなか気付けないのである。


いや、もしかしたら本能的に、気付きたくないのかもしれない。
自分のエゴから目をそむけていたいのかもしれない。

愛の意味


本当の愛は、人を愛することで自分が救われる、幸せを感じる、そういった類いのものである。
そこにどうして苦しみが生まれるだろうか。


苦しみが生まれるのは、人を愛するという行為の裏で、自分を勘定に入れていたから。
愛することを通じて求めていた何かを手に入れることができなかったからに他ならない。
そのような「手段としての愛」が、本当の愛であるはずがないのは道理である。


だから人を愛するという行為は、じつはとても難しい行為。
簡単にできることじゃあない。
求め欲するのではなく、慈しむ心からしか愛は生まれないからである。


そのような尊い愛を、禅や仏教では慈愛と呼んでいる。


人を愛する心を持った2人が幸いにも出会えたなら、それは本当に素晴らしいこと。
愛されたいがために愛するのではない、尊い慈愛が互いの胸に届く。


「愛が結ばれる」とは、このことを指す。
「恋が叶う」とは根本が違っている。


禅や仏教では愛という言葉をあまり良い言葉とは考えていない。
愛とは渇愛、つまりが自己愛である場合がほとんどだからである


しかし、なかには本当の愛もある。
だから慈愛という禅語は、仏教や禅の言葉のなかでは珍しく、愛を良い意味で用いた数少ない言葉の1つとなっている。


願わくは、渇愛ではなく、慈愛が心に宿ることを。