禅の視点 - life -

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一寸坐れば一寸の仏 ~真似でいいのだ~

一寸坐れば一寸の仏


「学ぶ」という言葉の語源は「真似ぶ」だという。考えてもみれば、私たちが生まれてきてからこのかた学んできた事柄というのは、その多くが先人の知恵の習得、つまりは先人の真似である。


食事、遊び、技術、文化。日常生活のあらゆる事柄を想像してみて、そこに真似のないものがあるかどうかと考えてみる。先人の知恵や失敗と無関係に存在しているモノ、コト。たとえどれだけ最先端で斬新なものであっても、その基礎となる部分には必ず先人からの学びがある。すると、何の真似もなしに存在しているものなど、おそらく世界に存在しないのではないか。


高校で学ぶ微分積分なんていう難しい話でなくても、たとえば小学校で学ぶ九九だって先人が編み出した知恵。非常に便利な計算方法で、覚えやすくすぐに自分のものとして習得できてしまうが、それは真似が定着したということ。九九を自分で考え出したわけじゃあない。


言葉を話すことができるのだって、生まれてからひたすら周囲の声を聞いて真似をしてきた結果にほかならない。真似を続けるといつしか自分の型のようなものが形成され、自分のものとしてそれを習得し、活用できるようになる。だからまるで自分独自の力のように思ってしまうことがあるが、最初からそんな力は誰にもなかった。誰もがゼロから真似によって学習してきた


「習う」という漢字の成り立ちも「真似ぶ」とよく似ている。「習」は「羽」の下に「白」が組み合わさってできているが、これは雛鳥が繰り返し羽ばたいて飛ぶ練習をしている姿を表現しているという。翼を羽ばたかせているから、内側の白い羽が見えるというわけだ。そしてその羽ばたきは、親鳥のそれを真似ている。「習う」もまた「真似ぶ」に通じる。


私たちは日々の生活のなかで、様々な事柄を真似ることによって、生きる上で必要な事柄を学び習ってきた。だから真似をすることは、極めて重要な学習方法と言えるだろう。


けれどもそのような「真似ぶ」も、人から「真似」と言われると、あまり良い気はしない。真似は恥ずかしいことだという湿り気を帯びた通念が、残念ながらこの社会には存在する。それはもしかしたら、自らが真似によって成長してきたという事実に、私たちが意識を向けていないがためかもしれない。真似は恥ずかしいことではない。それどころか、人が成長する上で必要不可欠な学習方法である。


一寸坐れば一寸の仏」という禅の言葉がある。一寸は約3cm。ただしここでは厳密な数値を示しているのではなく、「短い」ということが言いたい。僅かな時間坐禅をすれば、僅かなあいだ仏として生きた。そんな意味の言葉である。


では、1時間坐ったらどうなるのか。もちろん、1時間坐れば1時間の仏。では、1日のあいだ、ずっと坐禅の心で過ごしたとしたら。もちろん、1日の仏。じゃあ、それを一生続けたら。一生続ければ一生の仏。


仏として生きようと仏の真似を続けて、やがて仏という意識が抜け落ちて、普通に生きる姿が仏となっている。本人に仏なんていう意識はない。たぶん仏というのは、そんな「普通」に生きている人のことなのだと思う。


だから、真似でいい。スポーツなどで上達の早い人は、得てして真似をするのが上手い。よく見て、よく真似る。教わったことをすぐに真似することができる。我に固執せず、新しいものをどんどん受け入れて吸収していくことができる。そうして真似たことが定着するまで反復練習し、自分のものへと習得していく。


生き方だって同じだ。仏の真似事でいい。仏の真似をして生きれば、真似がやがて定着する。意識しておこなっていたことが、やがて普通のこととなり、意識しないでもそのように行動するようになる。真似を続けていけば、やがて本物と変わらなくなる


1回真似ただけでは意味がないと思うかもしれないが、そうでもない。その経験は事実として残る。たとえば昭和の名僧、澤木興道老師は「泥棒」を喩えに次のように説いた。


「泥棒は、盗みを重ねて少しずつ本物の泥棒になっていくのではない。1回でも盗みをはたらいたら、その瞬間にもう立派な一人前の泥棒である」


1回盗みをしたら泥棒5級で、2回したら4級で、10回したらようやく1人前の泥棒として認められる、わけではない。たしかに1回でも盗みをしたら、その瞬間に一人前の泥棒だろう。


つまり、仏もこれと同じだということ。仏の真似をすれば、その時人は即座に仏として人生を生きたことになる。もちろん、仏の真似をやめれば仏ではなくなる。仏も泥棒も、どう生きたかの事実を示しているのであって、最初からそういう存在の人がいるわけではない。生き方によって、誰もが泥棒となり、誰もが仏となる。何を真似てどう生きているかの違いである。自分が何者であるかは、常に現在進行形であるということだ。


だから、真似でいい。最初は真似しかできないし、真似で十分。真似であろうと何だろうと、そのように生きた事実は動かない。自分が何者かを示すのは、今自分がどう生きているかによって決まる。瞬間瞬間、自分が「何者」であるかは更新されていく。だから真似を続ければ、それでいい。