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【禅語】 威儀即仏法 作法是宗旨 - 曹洞宗における「形」の意味 -

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【禅語】威儀即仏法 作法是宗旨(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)

禅宗の一宗派である曹洞宗には、
威儀即仏法 作法是宗旨」(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)
という金科玉条がある。
日本曹洞宗の開祖である道元禅師の言葉だ。
曹洞宗の教義を一言で示すものとして、この言葉は非常に重んじられている。


通常この言葉は、
きちんとした儀式作法を行い、教えに則った生活をおくることが、曹洞宗の教えである
と解釈される。
実際、永平寺などの修行道場では日常生活の細部にまで規則が定められており、その規則に従って日々の生活をおくることが修行の大前提とされている。


細かな規則

法要儀礼はもちろんのこと、朝起きたあとの顔の洗い方からはじまり、食事、トイレ、掃除、風呂、睡眠など、
「そんなことにまで!?」
と、にわかには信じ難い細部にいたるまで、永平寺ではあらゆることに作法や規則が存在する。


4時に梵鐘を撞くのであれば、1秒の狂いもなく正確に4時ちょうどに撞かなければいけない。
神経質になり過ぎではないかとの思いが、当然のごとく心に湧き起こるような生活をおくっている。
それが永平寺の修行生活。


「それは形骸化なのでは?」
との指摘を受けることもある。


しかし、形を重んじることこそが宗旨であると堂々と謳っているため、
「形がなければ、ただの形無しでしかない」
とばかりに、気にもとめない。


むしろ、形を揃えることができないのは、我をコントロールすることができない証拠であり、心の乱れの表出と見なされる。
したがって、そこでは徹底的に我を殺し、大勢の修行僧と一つにならなければならない。
このことを永平寺では「大衆一如」と呼んでいる。
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永平寺を訪れたことがあり、大勢の修行僧が一糸乱れぬ動きで法要を勤める姿を見たことのある方は、きっと一目見て驚かれたのではないだろうか。
私の友人は、
「あれはもはや伝統芸能の域だ」
との感想を漏らした。


なるほどたしかに的確な喩えかもしれないと、思わず頷いてしまった。
形を極め、形になりきった姿がそこにはある。


私はそうした「形」を重視する修行空間があまり好きではなかったが、その姿勢自体が誤りだという気はない。
それにはもちろん重要な意味が込められているからだ。
ただ、道元禅師が残した「威儀即仏法 作法是宗旨」という言葉を、単純に「形を重んじる」とだけ解釈してしまうと、本来意図するところまで至らないのではないかとの疑問も感じている。

形を習得することの意義

道元禅師は修行において坐禅を理想の形の1つとした。
ブッダ自身が坐禅によって悟りを開いたからである。


そうした坐禅を禅師は「只管打坐」と表現し、何かのために坐禅をするのではなく「ただ坐る」べきであると主張した。
坐禅は何かを得るための手段ではなく、坐禅することそれ自体が目的だという意味である。


人は誰もが本来、無色の心をもっている。
欲や煩悩が関わる以前の、素の心のことである。
この心を仏の心と呼ぶこともある。
だから自分の思いを差し挟むことがなければ、つまり無心であれば、人の心はおのずと素の心となり、仏の心でいられると考えたわけである。


「ただ坐る」べきであると説いた「只管打坐」という言葉には、思いを挟まずにただ坐ることによって、心が本来の状態のまま維持されるという意味が込められている。
仏の心を得ようとするのではない。得るとは逆の概念。
煩悩の霧が晴れて、本来の仏の心が姿を現すというニュアンスだ。


そうした仏の心で坐ったとき、その人は仏として生きているのと一緒なのだから、その時人は仏そのものになっているとして敬い、坐禅を重んじたわけである。
仏としての行いをしている時、人は仏として生きていると考えたわけである。

日常生活の全てが修行

ただ、私たち人間は坐禅ばかりしていては生きられない。
社会に暮らす私たちは、働き、食事をし、それからたとえばトイレにだっていく。
人間には衣食住のすべてが不可欠である。


そこで禅師はこう考えた。
日常の生活のすべてを坐禅の心で行えばいいのではないか。
日常生活を仏の心で過ごすこと。
それが禅師の修行観なのである。


しかしながら、形を整えずしてなかなか心は整わない。
心は頭で念じて整うようなものではなく、身(形)と連動して整うものである。
だから坐禅を重んじるように、日常生活にも形を作って、形に沿って行動することで、坐禅と同じはたらきを持たせることができるのではないかと考えたというわけだ。


曹洞宗で「威儀即仏法 作法是宗旨」という言葉が重んじられ、形が重んじられる理由はここにある。


あらためて言うが、「威儀即仏法 作法是宗旨」とは、「形を重んじる」ということである。
しかし本当に考えるべきは、なぜ「形を重んじるのか」ではないだろうか。
そこに考えをめぐらすことがなければ、それは前述の指摘のとおりただの「形骸化」でしかなくなる恐れがある。


形を整えよと言うものの、形を整えることに執着し終始してしまえば、それは真に形を整えたことにはならない。
形に執着するだけの、ただの形無し。


形があっての、型破り
歌舞伎の世界に存在する言葉であるが、禅に通じるものでもある。
形を身につけ、その形を超え、そして形を忘れ去るところに、真に自由闊達な心の世界が開けるのだろう。
それが道元禅師が説いた修行観であり、禅の修行が日常生活のすべてであるとされる所以だ。


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