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【禅語】 百不知百不会 - 人生の不思議、命の謎 -

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【禅語】百不知百不会(ひゃくふちひゃくふえ)

命というか、この人生というのは、じつに不思議なものである。
自分がいつ生まれたのか、自分ではわからないままに、いつのまにか自分がこの世界に生まれている。
気がついたときには、自分という存在がこの世界に存在している


そして、自分の意志とは無関係に、やがては死を迎える。
自分が死ぬということがどういうことなのかもわからないままに、人は死をむかえる。
結局人は、特に意識することがなければ、自分の人生において根幹をなすような事柄、つまりは「生きるとは何か」「命とは何か」といった事柄について、何も知らないままに生きるしかないのである。


まさに人生は不思議。
命は謎。


「不思議」に対する宗教の役割

そのような不確定な、けれども人生における重要な事柄についての答えを提示することが、宗教の役割の1つなんだと言う人もいる。
宗教者の内部にも、外部にも。


たとえば、「死んだらどうなるのか?」と問われて、はっきりと答えることができなければ、葬儀を勤める僧侶としては失格だ、答えることができなければ葬儀を勤める資格などない、答えなくして葬儀は成立しない。
そう考える僧侶も少なくない。


その理屈がわからないわけではない。
この世の人が亡くなって、あの世へと送るのが葬儀であるのだから、そのことに胸を張れないようではおかしいという指摘だろう。


しかし、このことに胸を張れない僧侶は、そもそもこの前提を自らの内で消化することができていないのである。
「あの世へと送ることが葬儀」なのだろうか。
本当にそうなのだろうか、と。


簡単に「あの世」というが、そもそもあの世とは何なのか
死後の世界なのか。
死後の世界など存在するのか。
いや、そもそも死とは何なのか。
心に問いを抱く僧侶に葬儀を勤める資格がないのだとすれば、私にもその資格はないことになる。

宗派によって異なる「あの世」

宗派によってこのあたりの心情にはいくらかの違いがあるのかもしれない。
「亡くなったら阿弥陀仏が西方浄土へと導いてくれる」という教理が核にあるような浄土思想の宗派は、この根幹が揺らいでいては思想そのものが根底から崩れてしまうだろう。
信じること、信仰が核となっている宗派だからである。


禅はどうか。
たとえば禅では死後というものをどう考えているのか。
たとえばこんなふうに答えた禅僧がいる。


「死後のことは考えの及ばない事柄である。
考えの及ばない事柄についていくら考えても結論は出ない。
それは妄想であり、まっとうに生きることの妨げでしかない。
だから考えてもわからない死後について問う前に、まず問うべきは「死」そのものでなければならない。
そして、死の表裏である今確かに生きているこの生をこそ問うべきである」
と。


早い話が、「坐禅をして心を定めて正しく生きよ」ということになるだろうか。
これが禅の姿勢の基本であると、私も思う。


わからないものはわからない。
この世界には考えの及ばない不思議があり、どうしようもない謎がある。
仏教には「悟り」が付きものであるが、悟ったら何もかもわかるのではない。
むしろ逆であるとさえ考える。

百不知百不会の世界

宋の時代に生きた無文(むもん)という禅僧は、悟った後に「百不知百不会」という言葉を残した。
私は何も知らない。何も理解していない
そんな意味の言葉である。


なぜ、悟ったのに何も知らないなのか。
何も知らないというのなら、一体何を悟ったというのか。


無文の言う「知らない」とは、単に何かを知らないのではなく、知るとか知らないとかという相対的な考え方から脱却した、絶対の境地から放たれた「知らない」だと解釈することもできる。
知るとか知らないとか、言葉に固執すること自体が煩悩なのだと。


ただ、それ以前に、無文は知ることのできない事柄があることを知ったのではないか、と私は思う。


自分が何ものなのか。
その問いを追い続けていたら、そもそも自分などという固有の存在は存在しないことに気がついた
般若心経で説くところの「空」の思想と同じである。
自分は自分でありながら、自分ではなかった。
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世界も同じこと。
目の前に広がっているからすでに知っているような気がするが、実際は世界について何も知らない。
なぜ世界が存在しているのか。
宇宙が存在しているのか。
自分についても知らないが、目の前の世界についても何も知らない


そうだとしたら、この人生、生き死に、明らかにするべきは、「わからない」ということをはっきりとわかり、自分とは問いであり謎そのものであることを自覚することであるのかもしれない。
そうした心から発せられたのが「百不知百不会」。
私は何も知らない、何も理解していない」という言葉だったのではないか。


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