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【禅語】 放下着 ~執着はエネルギー源でありストレス源~

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【禅語】放下着(ほうげじゃく)

捨てる。
すると軽やかに生きられる。
放下着とはそんな意味の禅語である。


「着」という字は前の言葉の意味を強める助字なので、その字自体に意味はない。
現代でいえば「!」に相当する文字。


「下着を放る」とも読めてしまうが、これは「下着」という単語ではない。
区切りをつけるなら、「放下」「着」である。
「放下」とは、捨てるということ。


つまり「着」は「放下」を強める働きをする字なので、放下着という禅語の意味を正確に記せば「捨ててしまえ!」とでもなるだろうか。
単に捨てると言っただけでは、生ぬるいかもしれない。


ぎっしりと荷物を詰め込んだリュックを背中から下ろせば、肩がすっきり体も軽やか。
同じように、心にぎっしりと溜め込んだ執着を捨てれば、清々しい本来の心に戻れるのだと、執着心を捨てることができない人に心安らぐ方法を伝えようとしている禅語だと言える。


執着は悪者なのか?

いつも悪者として槍玉にあげられている執着心というのは、なにも悪いことばかりなのではない。
執着心は物事を推し進める力にもなりえるというか、エネルギー源になることがあるのも事実


たとえばスポーツ選手が大会で優勝したいとか、世界一になりたいと願うときには、必ず強固な信念が必要となるだろう。
それは「絶対に諦めない」「なにがなんでも手に入れてみせる」というような、自分の望むものへの執着心を剥き出しにすることと同義である。


その執着心が前進する際のエネルギー源になっている限りは、執着もあまり問題はないのかもしれない。
気を付けなければいけないのは、エネルギーが常に生み出されているのも関わらず、前進することができなくなったとき。


スランプでも、怪我でも、壁にぶち当たったときでも、どうしても勝てないときでも、どんなときでもいいのだが、エネルギーだけが膨れあがり、行き場をなくして心に溜まりはじめると、執着は瞬く間に苦しみを生みはじめる。
望むものが得られないことで、大きなストレスを自らの身と心にもたらすようになってしまう


強固な信念である執着はエネルギー源になりえるが、それはいつだってストレス源と紙一重。
信念がいつからかただの執着に変化していることに気付くことができなければ、努力するだけ自分を苦しめてしまうという負のスパイラルに陥ってしまうことだろう。


がんばって、がんばって、それでもダメで、もうこれ以上何をがんばればいいかわからないという状態の人に「がんばって」と声をかけても負荷にしかならないのは、努力という名の執着が行き場を失って溜まりはじめ、エネルギー源からストレス源に変化しているからだ。


その変化にだけは常に注意をしていなければいけないよと、そんな意味を込めて仏教では「執着をするな」ということを何度も言うのである。


仏教では、生きている間に欲望(執着)をすべて消すなんてことは不可能だと考えている
人は無欲にはなれない。
無欲では生きることができない。
食欲も、睡眠欲も、それがなければ人は生きるという営みがそもそもできないのである。


だから生きるとは、欲を満たし続け、生きることに執着し続ける営みであるとさえ言える。
そのような生きる上での事実を直視しているからこそ、仏教では無欲を説かない。
そんなものは人生には存在しないことを知っているから、少欲を説く。知足を説く。


欲をコントロールする精神を鍛え、自分の主(あるじ)は欲ではなく、自分の精神であろうとする生き方を説くのである。
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苦しみを感じるとき、この苦しみはもしかしたら自分のなかにある何かへの執着心から起こっているのかもしれないと、そっと自問してみるのはとても大切なこと。
何かを求め、その何かが満たされないから、理想と現実の間にズレが生まれて苦しみが生じる。
その何かに気付くために、知らず知らずのうちに心に溜め込んでいた荷物に眼を向け、これを少しずつ降ろしていく努力を重ねることも、禅の修行の1つなのだ


「捨てることができない」という執着から離れるという、重要な修行。
「放下着」とはそのことを言っている。

筏のたとえ

捨てられないということがいかに自分の負担となっているかということを、ブッダは次のような「筏の喩え」で弟子たちに説明したことがあった。


ある旅人がとても幅の広い大きな河に差し掛かった。
泳いで渡るには無理があったから、その旅人は筏(いかだ)を作って河に浮かべ、漕いで向こう岸へと渡った。
無事に対岸に辿り着くと旅人は思った。


「この筏がなければ私はこの河を渡ることはできなかった。
この筏はとても役に立った。
だから、この筏を捨てるようなことはせずに、肩に担いでこれから先も持ち歩こう
と。


そうして旅人は筏を背負って歩き出したのだが、弟子たちよ、この旅人は筏に対して適切な対処をしたと思うだろうか。
きっと誰もそうは思わないことだろう。
筏を担いで歩けば、人はすぐに疲弊してしまう。
たとえ役立つものであっても、正しいことであっても、執着することでそれが負荷をもたらすものに変わってしまうのである


だから正しいことでさえ執着するべきではない。
ましてや正しくないことに執着などしたら、苦しみしか生まない。
いつも執着心から離れているよう、心掛けて生きるように。

執着という荷物を降ろそう

なかなか面白い話ではないだろか。
先のスポーツ選手の話に当てはめれば、信念という美名で巧妙にカモフラージュされているが、その実体は紛れもなく執着であり、筏を背負っているという事実を忘れてはいけないよと、ブッダは言っているのだろう。


もっとも、ブッダにしてみれば正しいことでさえ執着するべきではないというくらいだから、信念すらも捨てるべきなのかもしれないが。


筏なら、それが担ぐべきものではないことは容易にわかる。大きすぎるから。
しかしそれが目に見えないものだったら、はたしてどうだろうか。


実際には肩に重さを感じない「筏」であった場合、それでも私たちはそれが担ぐべきものではないことをはっきりと判断することができるだろうか。
わからずに担いでしまうことがないと、自信をもって言い切れる人はきっといないのではないか。
人は多かれ少なかれ、そんな筏を担いで生きているのである


シンプルな生活、シンプルな思考、シンプルな生き方。
荷物を降ろすたびに、身と心は少しずつ軽くなっていく。
安らかに生きることができるようになる。


しかし執着という心がある限り、簡単に荷物を降ろすことはできない。
着なくなった服でさえ、そこに執着が残っていれば捨てることができないくらいなのだから。


有用だったものほど、執着は強固なものとなりしがみついて離せなくなる。
大事だと思うものほど、自分をより苦しめる筏になりえる。


だから河を渡るのに役だった筏は、「対岸に渡るためだけの筏」であったのだと認識し、肩に担いで持ち歩くようなことはせずに、岸に置いていこう。
目に見える筏も、目に見えない筏も、自分の身と心に重くのしかかる荷物であるという事実を忘れないように生きていこう。


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