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『修証義』第四章「発願利生」を現代語訳するとこうなる ~人の幸せを願う~


『修証義』第四章「発願利生」を現代語訳するとこうなる

修証義』の第二章「懺悔滅罪」、第三章「受戒入位」は、悟りを求める修行の在り方を説くものであった。今回みていく第四章「発願利生(ほつがんりしょう)」はそれらとは少し趣きが異なり、自分ではなく人の幸せを願う生き方が説かれている
仏教には「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」という言葉がある。
上求菩提とは自らの悟りを求める生き方で、下化衆生とは人を導く生き方。
自分の内側と自分の外側と、目指す生き方は2種あり、そのどちらに偏るでもなく実践を積み重ねていくことが、仏の道と考えられているのである。


つまり第四章は後者の人を導く生き方に焦点を当てた章となっており、自分の内側の修行、悟りを求める生き方とは別の観点から多くの事柄が説かれている。
具体的には、人を導く際に重要となってくる4つの実践徳目として「四摂法(ししょうぼう)」というものが説かれる。
これは仏の道を歩む者が行うべき、他を利する4つの徳目である。これらの詳細と、その重要性を説くことが、第4章の主要なテーマとなっているのだ。
それでは第四章「発願利生」の内容に入っていこう。

第十八節

菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。

現代語訳

仏の道を歩いていこうとすることは、自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということでもある。在家の人であろうと、出家して僧侶となった者であろうと、どのような境遇にあっても、自分の幸せよりも人の幸せを願うような心をおこして生きていきなさい。

第十九節

(その)形 陋(いや)しというも、此(この)心を発(おこ)せば、已(すで)に一切衆生の導師なり、設(たと)い七歳の女流なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父(じふ)なり、男女(なんにょ)を論ずること勿(なか)れ、此れ仏道極妙の法則なり。

現代語訳

どのような容姿・年齢であっても、仏の道を歩く者は人々を導く師である。小さな女の子がふいに発した何気ない一言に気付かされ、頭の下がる思いをすることもあるだろう。正しい言葉は、誰が言ったかに関わらず、人を導く力をそなえている。年齢や性別は問題ではない。真実の前に人はみな平等であるというのは、仏道のすぐれた知見の1つだ

第二十節

(も)し菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)して後、六趣四生(とくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も、其(その)輪転の因縁 皆菩提の行願(ぎょうがん)となるなり、然(しか)あれば従来の光陰は設い空(むなし)く過すというとも、今生(こんじょう)の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚(な)お廻らして衆生の成仏得道に回向(えこう)するなり、或は無量劫(むりょうごう)行いて衆生を先に度(わた)して自からは終(つい)に仏に成らず、但(ただ)し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。
 

現代語訳

人が生きる世界には、苦楽の違いがあり、順境逆境といった別がある。
しかしどのような世界に生きていようとも、正しい心で生きるならその人生は尊いものになる。
本当の貧しさとは暮らしぶりのことではない。心の貧しさこそが、真の貧しさだ。


諦めてしまったり、腐ってしまったり、投げやりになったり、人生にはそのような暗い気持ちが心を覆い尽くしてしまうような時もある。
しかしそうした状況にあっても、自分の心を奮い起こす努力を忘れてはいけない。人の幸せを願うその祈りの力は、自分の心を奮い起こす原動力にもなる
仏の道を歩んだかつての祖師方は、これでもう十分人のために生きたと、上限を定めるようなことはしなかった。
どこまでもどこまでも、人を救い、人のために生きることが、自らの幸せそのものとなっていた。
人の幸せを願うのに、終わりというものは存在しないのだ。

第二十一節

衆生を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり、一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ) 、是れ則ち薩垂(さった)の行願なり、其(その)布施というは貪(むさぼ)らざるなり、我物(わがもの)に非ざれども布施を障(さ)えざる道理あり、其物(そのもの)の軽きを嫌わず、其功の実(じつ)なるべきなり、然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、此生侘生(ししょうたしょう)の善種(ぜんしゅ)となる、一銭一草の財(たから)をも布施すべし、此世侘世(しせたせ)の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但(ただ)彼が報謝(ほうしゃ)を貪らず、自らが力を頒(わか)つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり、治生産業(ちしょうさんぎょう)(もと)より布施に非ざること無し。

現代語訳

人の幸せを願う生き方ということについて、具体的には次の4つの実践徳目がある。

  1. 布施(施しをする)
  2. 愛語(優しい言葉をかける)
  3. 利行(手助けをする)
  4. 同事(自分のこととして考える)

これらこそ、仏の道を歩む者の誓願であり実践である。


その1つ目の布施というのは、所有したいという種の欲を貪らないことをいう
何でもかんでも欲しいと思い、自分のものにしたいという心を離れることが布施の根本であるから、自分の物を人に施すだけが布施なのではない。
施すという行為が尊いのであって、施す物が貴重なものだから尊いということでもない。
そうであるから、真理に適ったことを一言でも伝えたなら、それも布施である。僅かな金銭でも、道に咲く草花であっても、心を込めて人に贈れば、それも立派な布施となる。
それらは善い果報を生む種にもなる。
真理を伝えても、食べ物にはならない。食べ物を施しても、真理はわからない。真理と物とは互いを補い合う布施であり、車の両輪のようなものであるから、それらはどちらも大切な布施となりえるのだ。


だから相手の返礼を期待するような心や、施したあとで「惜しいことをした」と思うような心は捨てて、ただ人の幸せを願い、自分の力を人に分け与えなさい。
力とは技術のことでもある。自分が身につけた技能、たとえば河に舟を浮かべて人を対岸に渡すことや、橋を架けて交通の利便をはかることも布施である。
仕事をするということも、世のため人のためになることが根本にあるのだから、それらもすべて布施であると言えるだろう。

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第二十二節

愛語(あいご)というは、衆生を見るに、先(ま)ず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施すなり、慈念衆生(じねんしゅじょう)猶如赤子(ゆうにょしゃくし)の懐(おも)いを貯(たくわ)えて言語するは愛語なり、徳あるは讃(ほ)むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵(おんてき)を降伏(ごうぶく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能(よ)く廻天(かいてん)の力あることを学(がく)すべきなり。

現代語訳

2つ目の愛語とは、人に対して慈しみの心でもって声をかけることをいう
親が我が子を育てるときの言葉を思い出すといい。親の慈しみの言葉は、優しいときもあれば厳しいときもある。叱らなければならないことは、叱るのが愛なのだ。
正しく育ってほしいと願うとき、単に優しい言葉をかけるだけが子の成長につながるのではないことは、親でなくてもわかるだろう。


徳のある行いをしたときは誉めてあげなさい。徳のない行いをしたときは「そうではない」と諭してあげなさい。
憎み合っていた者同士が和解するのも、目上の人から下された無謀難題が撤回されるのも、すべては正しさを伝えようとする愛語から生まれる。
面と向かって誉められれば心は嬉しくなる。面と向かわずして人が自分のことを認めてくれていたことを知れば、その心遣いに深く感謝し、これからも正しく生きていこうという気持ちを新たにする。
愛語を聞いた者は、その言葉を肝に銘じ魂に刻む
愛語にはそれほどまでに人の世をひっくり返すほどの大きな力があることを知っておいてほしい。

第二十三節

利行(りぎょう)というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり、窮亀(きゅうき)を見、病雀(びょうじゃく)を見しとき、彼が報謝(ほうしゃ)を求めず、唯単(ただひと)えに利行に催おさるるなり、愚人(ぐにん)(おも)わくは利侘(りた)を先とせば自らが利 省(はぶ)かれぬべしと、爾(しか)には非ざるなり、利行は一法なり、普(あまね)く自侘(じた)を利するなり。

現代語訳

3つ目の利行というのは、富める者、貧しい者に関わりなく、その人のためになる手助けを惜しまないことをいう
窮地にある亀を助けたり、弱った雀を看病して回復させたりして恩返しを受けて出世した故事があるが、それらは恩返しを期待して行ったわけではなかった。
ただ「助けずにはおれない」という心から突き動かされた行動であった。そうした心から行われ手助けが利行である。


愚かな者は、人を助け、人の利益になることをすれば、自分が損をすると考える。しかしそうではない。
1つしかないものを取り合うような発想ではなく、1つしかないのであれば、それを全員で共有するような心でいることだ。
自分の力を自分のためだけに使えば、それは自分を超えるはたらきにはならない。しかし力を人のために使ったとき、そのはたらきは自分という枠を超えて大きな広がりをみせる
そのような広がりを持った力は、自分のみならず、他者のみならず、あまねく人に利益をもたらす。

第二十四節

同事(どうじ)というは不違(ふい)なり、自(じ)にも不違なり、侘(た)にも不違なり、譬(たと)えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、自侘は時に随うて無窮(むきゅう)なり、海の水を辞せざるは同時なり、是故(このゆえ)に能(よ)く水聚(みずあつま)りて海となるなり。

現代語訳

4つ目の同事というのは、自分と人とが違わないことをいう
違わないとは、相手と同じ立場になって物事を考えること、相手を受け入れるということでもある。
たとえば人の世に生きる仏は人の姿をしているのと同じように、人を救おうと考えれば、その人にとって何が救いとなるか、その人と同じ状況を想定していなくてはいけない。
自分の立場からのみ物事を考えていては同事の行いはできないのだ。


人ははじめ、自分と他者は違う存在であるように考える。それはいたって普通の感覚である。
しかし仏道を歩み見識を深めると、自分と他者とが別の存在とは思えなくなる。
他者のなかに自己をみることがあれば、自己のなかにも他者をみることもある。
それはあたかも、幾千の河の水が流れ込むことで1つの海を形成しているようなもので、河の水を区別することなく受け入れるから、海は海として存在することができている。
ここらへんの海の水はこの河の水で、あそこらへんの水はあの河の水というような区別をせず、違いを設けないから海は海でいられる。
多くの河の水が集まって1つの海を形成するがごとく、他者と自分とのあいだに垣根を作ることなく1つの世界を生きてほしい

第二十五節

大凡(おおよそ)菩提心の行願には是(かく)の如くの道理静かに思惟(しゆい)すべし、卒爾(そつじ)にすること勿れ、済度摂受(さいどしょうじゅ)に一切衆生 皆化(け)を被ぶらん、功徳を礼拝恭敬(らいはいくぎょう)すべし。

現代語訳

以上のように、仏の道を歩もうとするときは、布施・愛語・利行・同事の4つの心を忘れないようにしておいてほしい。
これらの道理をよくよく考えて行動し、決して軽んじてはいけない。
人々の幸せを願いながら生きることで、幸せが何であるかを知るきっかけをもたらすことができるかもしれない。
人に幸せをもたらす生き方はまことに尊い。だからそのように生きることを心掛け、またそのように生きる人々を敬っていこう。


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