禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

皮肉という言葉はなぜ「皮」と「肉」なのか。意外にも原意は仏教用語。

f:id:zen-ryujo:20170502092709j:plain


皮肉という言葉の意味【身近な仏教用語】

現在使われている「皮肉」という言葉には、主に2つの意味がある。
1つは、人を意地悪く遠回しに非難すること
もう1つは、思ったとおりにならないことを嘆く様子
「親のコネで就職できてよかったね」というセリフが前者で、
「頑張ったのに就活が徒労に終わるなんて皮肉だ」というセリフが後者。
まあ、この2つのほかに、ずばり「皮と肉」そのものを意味することもあるが、普通皮肉といえば2つの例のどちらかの用法を指す。


だが、そもそもの語源としては、ずばり「皮と肉」を意味するのがむしろ正しい
皮肉という言葉は、仏教のとあるエピソードから生まれた仏教用語なのだ。
そのエピソードは「皮肉骨髄の話」といわれており、禅を中国に伝えた人物として名高い達磨大師とその弟子との間で交わされて話として今に伝わっている。
こんな話だ。

皮肉骨髄の話

達磨大師のもとで修行をした4人の弟子がいた。ある日、達磨大師はその4人の弟子たちに質問をした
すると4人の弟子たちはそれぞれ自分なりの答えを、師である達磨大師に呈した。


1人目の弟子が答えを伝えると、達磨は頷いた。
「お前は私のを得た。よし合格」
2人目の弟子が答えを伝えると、また達磨は頷いた。
「お前は私のを得た。よし合格」
3人目の弟子の答えには、
「お前は私のを得た。よし合格」
4人目の弟子には、
「お前は私のを得た。よし合格」
そう言って、結局達磨大師は4人すべてに合格を言い渡した。つまり4人とも全員が自分の仏法を嗣いだと認めたわけである。
この4人への言葉のなかで登場した「皮」「肉」「骨」「髄」をまとめて、皮肉骨髄の話というわけ。


このエピソードの冒頭の2つをまとめて「皮肉」であるため、本来であれば「皮肉骨髄」と省略しないほうが適切なのだろう。ただ、それでは長すぎるので省略して「皮肉」。
で、問題なのは、この「皮肉」という言葉の原意である。これをどう解釈するかで言葉の意味はかなり異なったものになってしまう。


一般的に考えられているのは、「皮肉」は「骨髄」に比べて表面に近いため、理解の度合いが浅いという解釈。つまり皮肉と骨髄を完全にわけて考えるものである。
皮肉は浅く、骨髄は深い。
皮肉は劣っていて、骨髄は優っている。
つまり尊ぶべきは骨髄であり、皮肉とは未熟な見解や浅い理解を指し、そのような思考の人を蔑む言葉として使用するという解釈だ。


現在の皮肉という言葉の使用法はこれの延長線上にあるもので、冒頭の2つの例にあるように、どちらかといえばよろしくない言葉として使われている。
その根本には、皮と肉は浅い理解で、骨と髄は深い理解だという解釈がある。
つまり、皮肉は骨髄に比べて劣っているという解釈が根底にあって、そうした解釈の上に存在する言葉として使用されているのが現在の皮肉という言葉なのだ。

【スポンサーリンク】


皮肉という言葉の禅的解釈

ただ、禅では皮肉というものをそうは考えない。
そもそも皮肉とは皮肉骨髄と同じ意味であり、4つまとめて1つの言葉であるところを、省略して皮肉とのみ表記しているだけであって、意味としては骨髄まで含まれる。
そしてこの4者の回答には優劣があるのではなく、それぞれ達磨の教えをどう理解し、どう表現したかという違いがあるだけだと考える。
皮肉が表面的な理解で、骨髄が深い理解なのではない。
理解というものは人によって異なるが、四者四様の答えはどれが優れてどれが劣っているかというものではなく、それぞれ違うままで平等に正答であるというのが禅の解釈なのである。


たとえば、大根の調理法を思い浮かべていただきたい。
達磨大師の教えが1本の大根で、それを4人の弟子たちが調理したとする
1人目は、大根を薄く桂剥きし、細く切って刺身のツマを作った。
2人目は、短冊に切ってサラダにした。
3人目は、いちょう切りにして味噌汁の具とした。
4人目は、すり下ろして大根おろしにした。
あるいは一本丸ごと漬け物にしてもいいのだし、輪切りにしておでんに入れてもいい。


どう調理しようが大根は大根である。見た目や味わいはそれぞれ違うが、それぞれの違いに優劣があるわけではない。
味噌汁のなかにある大根が、刺身のツマより優れている道理はない。
おでんの大根はおでんの大根にしかできないことがあり、大根おろしには大根おろしにしかできないことがある
両者を交換することはできず、したがってそこに存在するのは一つひとつの姿であり、優劣ではない。
これが皮肉骨髄に対する禅の理解というわけだ。


そもそも達磨大師が4人全員に合格を言い渡したことを考慮すれば、皮肉は劣っていて骨髄は優れているという解釈には疑問が生じる。
それなら最初から「皮」と「肉」の2人には不合格を言い渡し、「骨」と「髄」の2人にだけ合格を出せばよかったのではないか。
しかし達磨大師はそうは言わなかった。4人すべてが自分の法を嗣いだとした。
それならばそこにある違いとは、ただ違いだけが存在するだけで、優劣ではないと考えたほうがやはり自然だろう


それでもまだ皮や肉よりも、骨や髄のほうが優れていると思えてならないという頑固な人は、こんな問いを自らに投げ掛けていただきたい。
「あなたは焼き鳥のなかで、皮やモモより軟骨のほうが優れていると思いますか?」
焼き鳥の部位に好き嫌いはあっても、どれが上でどれが下かと優劣を考えることなどナンセンスの極み。
それは個人の好みによる選択であって、普遍の序列ではないからである
「皮肉が浅い理解だなんて、皮肉の意味をよく理解しているんですね」
面と向かってそんな皮肉を言われないように気をつけよう。