【禅語】八風吹けども動ぜず ~不動心とは何だろうか~
武道の世界では「不動心」という言葉がスローガンのようによく掲げられている。
不動の心。
何があっても動じない精神力、常に冷静さを失わない心。
そんな意味をこの不動心という言葉からは連想してしまいそうだが、禅で考える不動心はちょっと違う。
じつは、禅語のなかにも不動心と似た言葉で「八風吹けども動ぜず」という言葉がある。
「八つの風」とは、人の心を揺さぶりやすい次の8つの事柄のこと。
- 利益
- 衰退
- 陰口
- 名誉
- 賞賛
- 悪口
- 苦
- 楽
利益になる話を聞けば興奮し、衰退する舟には乗りたくないと思い、褒められたら嬉しくて舞い上がり、悪口を言われたら不安や怒りの気持ちが湧いてくる。
そんなふうに、他人の言葉によって人間の心というのはいつも揺さぶられてしまう性分をそなえている。
そのような外からの声を風に見立て、どんな風が吹いても動じない心を尊ぼうと、この「八風吹けども動ぜず」という禅語は言っているというわけだ。
動じないとはどういうことか
「八風吹けども動ぜず」という禅語について考えるとき、大切なのは「動じない」という言葉の意味だろう。
普通「動じない」などと言われると、「梃子(てこ)でも動かない」というような、非常にどっしりとしたイメージを想像してしまうのではないか。
丘の上に巨大な岩が鎮座していて、嵐のなかでも微動だにしない姿のようなものを。
しかし、禅ではそうは考えない。
動じないとは、心が何の反応も働かせないようになることではない。
むしろ、感受性は機敏に働いていて一向にかまわないのである。
嬉しかったらはっきりと嬉しいと感じ、悲しければはっきりと悲しいと感じればいい。
重要なのは、その感じている感覚を引きずらないこと。
ずっと浮かれて有頂天でいてはいけない、という意味である。
第一、岩のように揺れることのない心になってしまったら、もはやそれは心が岩になってしまっている、
というか、それは岩である。
岩そのものである。
人間は岩ではない。
人間は感動もするし、悲しみも怒りも覚える。
人の心は生きる上で必ず動くのだ。
問題はその揺れた心をどうするかという点にほかならない。
つまり、「八風吹けども動ぜず」とは、揺れた心がすぐにもとの座標、心の中心点に戻ってくることを言った禅の言葉なのだ。
嬉しければ嬉しいと感じ、心をもとにもどす。
悲しければ悲しみ、心をもとにもどす。
怒るときは怒り、心をもとにもどす。
いつまでも感情を引きずるのは、感情に執着していることに他ならず、それは苦を生みだし、次なる感情にも悪影響を及ぼしてしまう。
それではいけないから、常に心をリフレッシュ。
食事の前に毎回手を洗うように、心が揺れるたびに心をリフレッシュ。
それが禅語でいうところの「八風吹けども動ぜず」であり、禅における「不動心」の意味である。
だから「八風吹けども動ぜず」の心は、岩ではなく、むしろ風鈴に近いもの。
どんな風が吹いてもふわりと揺れてチリンと鳴る。
しかし次の瞬間にはもう、もとの座標に戻りはじめている。
どんなことに対しても人間としての感受性を働かせるが、心をコントロールする精神をちゃんと有しているということだ。
動じない心なんてものはただの理想であって、実際には存在しない。
誰だって不安や怒りを感じるし、心は常に動きっぱなしである。
それはそれでいいのだ。
ただし、いつまでもそれを放っておいてしまったら、自分の心でありながらそれは自分の心ではなく、衝動に突き動かされるだけの心になってしまう。
それではいけない。
心の主は誰か。
欲にもとづく衝動か?
理性としての精神か?
心が揺れるのは仕方ないが、揺れたままでは自己の精神がない。
だから重要なのは、揺れた心をもとの位置へと戻すこと。
八風が吹いても動じることのない、ニュートラルの精神を大切にしよう。
それが禅語「八風吹けども動ぜず」。