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浜までは 海女も蓑着る 時雨かな ~滝瓢水の句におもう~

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浜までは海女も蓑着る時雨かな

江戸中期の俳人に、滝瓢水(たき・ひょうすい)がいる。
船問屋の息子として生まれた瓢水は若くして俳諧の才を発揮し、後に人口に膾炙するほどの秀句をいくつも残した。
浜までは海女の蓑着る時雨かな」はその1つだ。


ただし瓢水は放蕩息子という意外な一面でも有名で、家産を食い潰した異色の俳人としても知られている。
そんな瓢水は芭蕉の生き方を慕い諸国を歩いて俳句の道に生きようとするのだが、芭蕉と決定的に違う点があった。
金がいくらでもあったのだ。
家業の船問屋が稼いだ金を仕送りしてもらい、瓢水は結局、京や大坂で豪遊の限りを尽くしていたという。
……憧れの芭蕉先生の生き方はどうなったんだろう。


そんな暮らしぶりであったものだからやがて実家の船問屋は傾き、母親が亡くなった際には死に目にも会えず、どうしようもないドラ息子っぷりを発揮する瓢水。
ただそれでも俳句だけは輝いていた
そんな瓢水の「浜までは海女も蓑着る時雨かな」という一句が誕生した逸話をご紹介したい。


瓢水の詠む句は味わい深い上に人生哲学とでも呼ぶべき事柄を主題にしているものも多く、ある時1人の旅の僧がそのような評判を耳にして瓢水を訪ねたことがあった。
僧は瓢水に会うと、その見識について問おうとしたのだが、あいにく瓢水は風邪を引いており、
今からちょっと風邪の薬を買ってくるから、ちょっと待っててもらえないか
と言われてしまう。


これを聞いた旅の僧は、
「風邪くらいで一々薬を求めるなど、何を弱気なことを言っているんだ。
人の生き方を説く素晴らしい見識の持ち主だと聞いて来たのに、とんだ嘘であった。
そんなに命が惜しいのか、情けない」
と、腹を立てて瓢水の帰りを待つことなく去ってしまった。


瓢水が風邪薬を買って帰ってくると、待てと言ったはずの僧はもういない。
はて? どうしたのかと思っていると、傍にいた人が事の一部始終を教えてくれた。
なるほど、怒って帰ってしまったのか。
それならと、瓢水は一句紙にしたためて、
「申し訳ないのだが、先ほどの僧にこの句を渡してあげてほしい。まだ追いかければ間に合うかもしれないから」
と頭を下げた。


頼まれた者は急いで僧の後を追った。
そして何とか追いつき、瓢水の句が書かれた紙を渡した。
僧が受け取った紙を見ると、そこにはこう書かれていた。
浜までは海女も蓑着る時雨かな
この一句で、旅の僧は瓢水の評判が本物であることを知ったのだった。

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命に執着する、しない

海女さんは海に潜るのが仕事なのだから、必ず水に濡れることになる。
しかしそんな海女さんでも、雨が降っている日であれば、浜までは蓑を着て体をいたわるものだという。
どうせ濡れるのだからと、時雨で体を冷やすようなことはしない。
自分の体をないがしろにせず、大切に扱うのである


禅とか仏法などと言うと、命を投げ出してまで修行に挑むというようなイメージが付随しやすい。
厳しい修行で病なんか乗り越えろ、とでもいうような。
けれど実際は、そんなことはない。
「どうせ人間、いつかは死ぬんだから」と、自暴自棄になるような考え方は禅ではない。
「どうせ」という観念でしかない未来に呑まれることなく、平凡に今を見つめ続けるのが禅なのである
「どうせ」というなら、「どうせ今は生きているのだから」と、今を対象にしてこそ禅であると言えようか。


薬を買いに行った瓢水は、何も命が惜しくて薬を求めたのではない。
生きている間は、生きているということを大事にすべきだという、ごく自然ないたわりの行動であったはずである
我々坊さんは僧となる際にいくつかの戒を授かるが、その中に「不殺生戒」という戒がある。
命を粗末に扱わない。
そんな意味の戒であるが、それは他者の命だけでなく、もちろん自分の命も含まれている。
風邪で苦しんでいる人がいて、看病をしてあげることが普通だというのであれば、自分が風邪を引いた際にも、自分で自分をいたわってあげるのでなければおかしくないか。


どうせ死ぬんだから、好き勝手生きて死んじまえばいい。
そのような生き方は「不殺生戒」に反する生き方となる。
禅では何にも執着をするなという。
命にも執着してはいけないということになるのだろうが、それでは命を軽んじたほうがいいという意味なのかと言えば、それもまた違う。
命を軽んじれば、軽んじる考えに執着をしている


じゃあ何にも執着しないってどういうことなのかということになるが、結局のところ、こうなるよりほかにないのではないか。
今、生きているのなら、生きていることを大切にする
特別なことを思ったり行ったりするのではなく、平凡な今を平凡な心で生き抜くことが、とりもなおさず禅という生き方に適うということだ。
結局世界には、「今」以外の時間が存在しないのだから。


そういえば正岡子規も似たようなとても意味深い言葉を残している。
「私は今まで禅の悟りというものを誤解していた。
悟りというのは、いかなる場合でも平気で死ぬことかと思っていたが、それは間違いだった。
悟りとは、いかなる場合でも平気で生きることであった


瓢水の句とともに子規の言葉を読むと、2人とも禅僧ではないのに、禅僧よりも禅の神髄を体得しているかのようで、なるほどなぁと頭を垂れてしまう。