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【禅語】 はづべくんば明眼の人をはづべし - 恥と金と志の月僊 -

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【禅語】はづべくんば明眼(めいげん)の人をはづべし

人の眼が気になる人からどう思われるかが心配で、自分が思うことができない。自分に自信が持てない。
大なり小なり、このような思いを抱いたことが誰にでもあるのではないかと思う。こんな時、あなたならどうするだろうか?


人の眼なんか気にしなくていい、自分の思うように生きればいいんだ。そんな言葉を耳にすることもありますが、なかなかそんなわけにもいかないのである。
社会のなかで生きていれば、人間関係というものがあるわけだから。
人の眼をまったく気にせずに行動すれば、それはそれでまた問題が生じてくるのだろう。


ただ、人の眼を気にするということに関して、注意しておかなければいけないことがある。それが今回の禅語はづべくんば明眼の人をはづべし」。『正法眼蔵随聞記』という書物にでてくる道元禅師の言葉である。
訳せば、「人の眼を気にするなら、物事を正しく見抜くことのできる優れた人物からどう見られるかを気にしなさい」とでもなるだろうか。


人から馬鹿にされたとしても、その人物が物事を正しく理解していないのであれば、馬鹿にするその言葉自体が間違っているかもしれない。
したがって、何でもかんでも人の言うことを鵜呑みにするのではなく、一喜一憂するのでもなく、誉められても馬鹿にされても、その言葉が真実について述べられているかを常に考えることが重要である。そうやって真実について考えることをしなければ、人の言葉から何かを学び、成長していくことなどできはしない。

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江戸時代、伊勢の寂照寺というところに月僊(げっせん)という非常に絵に長けた和尚がいた。そういう僧侶を画僧とも呼ぶ。
山水花鳥人物、何を描いても巧みな彼の絵は、飛ぶように売れていったという。


しかし、彼は絵を頼みに来る者がいると、いつも決まって
「お金はいくらお出しになれますかな?」
と訊き、安ければその話を受けなかった。
その金にうるさい態度が僧侶として相応しくないということで、彼を批判する者もまた多かったようである。
ただ、人から軽蔑されても彼の絵が素晴らしいものであることに変わりはなく、絵を求める者は後を絶えなかった。


ある日、このような月僊の評判を耳にした町の芸者が、その僧侶らしからぬ僧侶を辱めてやろうと彼の元を訪ねてきた。
「いくらでもお礼は差し上げます」
という芸者の言葉を聞き、月僊は喜んで筆を執り絹地に牡丹の絵を描き上げた。
そして後日、描き上げた絹地を持って芸者の待つ料亭へと向かった。


中に入ると、部屋は酒宴の真っ最中。月僊が畳に上がると、芸者は月僊が来たことに気づき、
「みなさん、絵描きのお坊さんがきましたよ。さあ金の亡者のお坊さんにお礼をして差し上げましょう」
と、嘲笑いながら金を投げつけたのだった。
「仏さまに仕える出家の身でありながら、金にばかり眼の色を変える卑しいお坊さんなこと」


芸者もその場に居合わせた客たちも、皆がこぞって月僊を馬鹿にし、蔑んだ。
しかし、月僊はそのような誹謗を一向に意に介する様子もなく、投げ捨てられた小判を拾い集めると礼を述べて料亭を後にしたのだった。


人は彼を軽蔑しましたが、じつは月僊がこれほどまでにお金にこだわるのには理由があったのである。
彼は、凶作が続けば奉行所に大金を託して貧民の救済に役立ててもらい、荒れた道路や橋があればそれらを修理し、また、本堂の改築を志しながらも果たせずにこの世を去った師の意志を継いで本堂をも再建したのだった。


彼は自らの心に立てた誓願を果たすためにお金を集めていた。単なる金儲けではなかったのである。
そしてこれらの誓願が達成されると、その後は一切絵を描くことをやめてひたすら仏道修行に精進したという。


この月僊の行為は、傍目からは金儲けにしか見えず、人々から誹謗中傷を受けた。しかしそれらの言葉を本人はまったく意に介さなかった。
月僊が気にしていたのは、本当に正しい眼を持った人物から見て恥ずかしくない行いをしているかどうかだったからに他ならない。
上辺の姿だけで物事を判断し、真実を見抜こうとしない眼など、どうでもよかったのかもしれない。


行為の芯が正しいものであれば、誰からどう見られ、どう評価されても、気にする必要などないのである。
人の眼を気にする前に、その行為の根源にあるものは何なのか。そのことに自分の眼を向けるべきである。