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会釈の本来の意味 ~身近な仏教用語~

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会釈の本来の意味 ~身近な仏教用語~

立ち止まって話をするほどでもないのだけれど、素通りしたのでは失礼にあたる。
そんなときは笑顔で少しだけ頭を下げて軽くおじぎをするのがベター。
つまりが、会釈(えしゃく)である。
じつはこの会釈という言葉、もとは仏教用語なのをご存じだろうか。


会釈は、正式には「和会通釈(わえつうしゃく)」という四字熟語で、経典に書かれている内容をわかりやすく解釈することを意味していた。
この和会通釈という言葉を略して会釈。
また会釈のほかに「会通(えづう)」と略すこともあり、したがって会釈と会通はまったく同じ言葉ということになる。


経典に書かれている文章には注釈がないため、専門的な知識を有していないと意味がわかりにくいという言葉がよく出てくる。
また、文章の前後で意味がつながっていないように感じられたり、矛盾しているのではないかと思えたりする箇所もときには出てくる。


そのような疑問を解消し、納得できるような解釈をすることを和会通釈といい、難解な経典も会釈によってどうにか理解されてきたのである。


意味の変容

当初はあくまでも経典の解釈を指す言葉であった会釈であるが、やがて「難しいものを易しく直す」という意味が転じ、硬いものを和ませることや、スムーズに事が運ぶように気を配ることや、時と場において相応しい対応をすることなども会釈とよばれるようになっていった。


軽く挨拶をすることが会釈とよばれるようになったのは、丁寧すぎず、だからといって無礼なのでもなく、ちょうど良い加減の対応という点にあるのだろう。


挨拶としての会釈という言葉は、もともとの意味からすれば「どうしてそう変化した?」と首を傾げたくもなるが、「納得のいく方法」「適切な対応」という意味から考えていけば、ギリギリ納得できる変化であるようにも思う。


まさにこうした会釈についての説明も、会釈の1つであるといえるかもしれない。
よくわからないものに解釈を加えるという点において。

身近な仏教用語が多い理由

以前、挨拶という言葉が仏教用語であるという記事を書いたことがあったが、会釈もまた仏教用語からきているということを考えると、知られざる身近な仏教用語は本当にたくさんあるのだなぁと、改めて意外な気持ちにもなる。
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ことさらに意識することなく、日常生活のなかに浸透し混ざり合い、もはや通常の用語と不可分なものとして同化した仏教用語の存在は、おそらくは仏教それ自体も日常生活そのものとして受け入れられていたことの証しなのではないか。


宗教という言葉が生まれたのは幕末から明治にかけてであり、まだ比較的新しい言葉だ。
それまでの日本には宗教に相当する言葉はなかった。
仏教もまた儒教と同じように日常に溶け込んだ生活規範のようなものであり、それをあえて宗教と意識することはなかったということだろう。


しかし、ここ数十年の間でそうした意識はがらりと変容し、仏教は当たり前に身の回りに溶け込んでいたものから、宗教として捉えられるようになった。
名前を与えられたがために分離してしまった
そして言葉だけが日常のなかに取り残された。


それが、知られざる身近な仏教用語がたくさん存在する理由なのではないかと私は思っている。