禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

【禅語】抜群無益 大衆一如 ~自我を制御するために~

f:id:zen-ryujo:20180615130431j:plain

【禅語】抜群無益 大衆一如

道元禅師が著した、永平寺での修行生活における規則をまとめた書物『永平清規(えいへいしんぎ)』のなかに「弁道法(べんどうほう)」という章がある。
弁道とは修行生活を意味しており、したがって章の内容は、永平寺における修行生活について、坐禅を主体とした記述となっている。


その「弁道法」のなかに「抜群無益(ばつぐんむえき)」という言葉が出てくるということで、この言葉について記事を書いてもらえないかと、一般の方から問い合わせをいただいた。
もちろんかまわないのだけれど、問題が1つ。

私、その言葉聞いたことない……。どうしよう。

書く、書かない以前に、曹洞宗僧侶である私が、曹洞宗開祖の言葉を「知らない」という根本的な大問題。これはまずい。


これまでに『永平清規』をしっかりと読み込んだことがなく、抜群無益という言葉も現在の曹洞宗ではあまり使われていない言葉であると思われる。
永平寺にいた頃を含めて、そのような言葉を耳にしたことは、少なくとも私にはなかった。


そこで実際に『永平清規』を読んでみて当該箇所を確認すると、おお、確かに書いてある書いてある。
しかしまあ、このような言葉をご存じとは、相当な居士でいらっしゃる。
よい機会だから勉強させていただこう。


群を抜けては益無し

「弁道法」の当該箇所の前後の文章はこうなっていた。

仏仏祖祖、道に在ればすなわち弁じ、道に非ざればすなわち弁ぜず。法有ればすなわち生じ、法無ければすなわち生ぜず。ゆえに、大衆もし坐せば、衆に随って坐し、大衆もし臥せば、衆に随って臥す。動静大衆に一如し、死生叢林離れず。群を抜けては益無し、衆に違えば儀未し。此れは是れ仏祖の皮肉骨髄なり。亦乃ち自己の脱落身心なり。


現代語訳すれば次のように読める。


「悟りを開いた祖師方は、それが仏道に適う正しい行いであれば行い、そうでなければ行わなかった。
仏法に適う行いであれば行動が生じ、そうでなければ生じなかった。
だから、修行僧が坐禅をする時には自分もまた坐禅をし、修行僧が就寝する時には自分もまた就寝するのみである。
行動を常に修行僧のあるべき姿に照らし合わせ、生涯そうした修行態度から離れてはいけない。
自我に動かされて自分だけ別のことをしても得るものはなく、他の修行僧らと異なる生活に意義はない。
これは祖師方が伝え残してきた教えであり、また、自分に執着することを離れる方法でもある」


群を抜けては益無し。これが抜群無益。なるほど、そういうことか。


抜群というと、抜群の成績というような「とてもよい」を想起してしまうが、ここでの用法はおそらく違う。
これは文字どおり、「群から抜ける」の意なのだろう。離脱ということ。
群とはもちろん大衆のことで、大衆とは修行僧のことである。
つまり抜群無益とは、「修行僧たちと行動をともにしないのでは成長がない」というような意味であると、とりあえずは理解することができる。


この考えは特別なものではなく、むしろ永平寺の修行における絶対的原則であり、現在の曹洞宗ではこのことを「大衆一如(だいしゅいちにょ)」と言っている。
大衆一如とは、修行僧らが行動をともにする、というほどの意味。
「バラバラではいけない」が抜群無益で、「一丸となる」が大衆一如とでもいえばいいだろうか。
両者の違いは1つのことを否定形で示すか肯定形で示すかの違いであって、言いたいことはどちらも同じというわけだ。

なぜ抜群無益、大衆一如を説くのか

大衆一如であることの意義は、修行僧という存在に成りきることにあるように思う。
「自分」ではなく、「修行僧」に成る。
自分にこだわろうとする根本原因の自我から離れたいのである。


「こうしたい」「あれはしたくない」といった自我を放り捨てて、ただ定められた修行を一心に行う。
水がただひたすら高い場所から低い場所に流れつづけるように、自然の理法に沿って、余計な力みを加えず、修行僧としてのあるがままの運行に身を委ねるというような感覚。


大衆一如とは、捉えようによっては「みんなに合わせる」というふうに受け取ることもできてしまうが、それはちょっと違う。
そうではなくて、そもそもみんながやっていることというのは、修行僧が行うべき正しい修行であって、その修行僧が行うべき修行を、修行僧全員で行う、というようなニュアンスと理解したほうがおそらく良い。


他の修行僧らに合わせるのはでなく、修行僧として行うべきことを全員で行う。
それが大衆一如


抜群無益と身と心の関係

道元禅師は身と心を用いるとき、必ず身を先とする思想の持ち主であった。
坐禅によって身と心を整えるというのであれば、まず整えるべきは身(姿勢)であり、姿勢が整えば心はやがて自然に整うという考え方を提示したのである。
たとえ最終目的が心の統一にあったとしても、心に直接アプローチするのではなく、必ず最初は身に働きかけることを説いた。


これは修行生活のあらゆる場面にも応用されており、したがって永平寺ではまず行動を正すことが修行の第一と位置付けられている
坐る姿勢、立つ姿勢、歩く姿勢、食事の仕方、入浴の仕方、トイレの仕方、顔の洗い方。
そんなことまで!? と驚くような些細な日常生活の端々にまで作法が細かく定められている。
つまり作法とは身と行動を正すためのツールというわけだ。


永平寺に修行に上がった者は必ずといっていいほどこの作法の習得に手こずり、大半の者はこう訝る。
「作法が細かすぎるだろう、おい」
トイレの仕方にまで作法があるなんて驚きを通り越してもはや謎でしかないと、私も思ったものだった。


型にはまることが極端に嫌いだった私は、型しか存在しない永平寺の修行生活をなかなか受け入れることができなかった
こんなことをしてどうなる。決められたことを、決められたときに、決められたように行う。それも毎日毎日同じように。禅の修行とはこんなものなのか、と。


意味を理解しようとすることなく、拒否することしか考えられなかったという点において、恥ずかしながら、まあ、未熟そのものだったわけである。


そんなとき、ある先輩の僧侶からこんなふうに叱られたことがあった。
お前は我をなくすためにここに来たんじゃないのかっ!
おそらく自我が全面に出まくってばかりいたのだと思われる。出していたから、当然なのだが。


永平寺では古参の和尚が新参和尚を叱ることが多々、いや、多々々々々々あるが、そのうちの多くは理不尽と言わざるを得ないもので、叱るというよりも気分を荒げているに近い。
「気に入らない」という本人の気分が多分に影響しているとしか思えず、相手を諭してあげたいがために叱っていると感じられるケースは稀だ。


それだけに、このときの言葉はとても胸に響いた。
そうか、自分は永平寺に何かを主張するために来ているのではなく、何かを受け入れるために来ていたのか
我を捨てないことには、新しいものが入らないということか。
たったそれだけのことで、眼に映る景色がガラリと変わった。


同時に、これが永平寺の修行の在り方を考えはじめる契機となった。
なぜそうなのか、を考えることが重要であることなどわかっていたはずなのに、それだけの余裕がなかったからなのか、永平寺ではほとんど考えることをしなかった。
遅まきながら、本当の意味での修行開始である。


たまに勉強のしたくない高校生などが「勉強して何の役に立つんですか」と言って教師に楯突くことがあるが、あれもまさに考える力のない未熟な姿勢そのもの。
そんなこと、自分で考えればいいだけのことだ。
誰かに意味を与えられなくても、自分なりの意味を考えて、その意味を大事にすればいいだけの話である。
私もまさにこの未熟姿勢そのものだった。


少々話が脱線したが、結論からいえばこうである。

抜群とは我を制御できない姿であり、一如とは我の制御である。
そして我の制御は心の管理下のことであり、心を整えるためにはまず身を整えるところからはじまる。
永平寺の「形」を重視する修行生活は、身を整える修行そのものであり、そこに我を持ち出しては意味がない。ゆえに我を埋没させるために大衆一如に徹する


以上を踏まえて、もう一度「弁道法」の当該箇所を読んでみたい。


「悟りを開いた祖師方は、それが仏道に適う正しい行いであれば行い、そうでなければ行わなかった。
仏法に適う行いであれば行動が生じ、そうでなければ生じなかった。
だから、修行僧が坐禅をする時には自分もまた坐禅をし、修行僧が就寝する時には自分もまた就寝するのみである。
行動を常に修行僧のあるべき姿に照らし合わせ、生涯そうした修行態度から離れてはいけない。
自我によって自分だけ別のことをしても得るものはなく、他の修行僧らと異なる生活に意義はない。
これは祖師方が伝え残してきた教えであり、また、自分に執着することを離れる方法でもある」


正しく身を整えているとき、つまりは修行僧として正しく日々の生活を送っているとき、我は自ずと制御されていると考えるのが禅である
それが抜群無益、あるいは大衆一如の説くところであると考えられるのではないか。


※以前書いた「威儀即仏法」という禅語に関する記事が今回の記事と関連性が強いので、興味のある方は下の記事をどうぞ。
www.zen-essay.com