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禅の視点 - life -

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【大休宗休】人の評価は死ぬまでわからない - 禅僧の逸話 -

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【大休宗休】人の評価は死ぬまでわからない - 禅僧の逸話 -

戦国時代、武将今川義元の帰依によって、駿河(静岡県)の臨済寺の住職として招かれた禅僧大休宋休(だいきゅう・そうきゅう)がいる。
この大休禅師には「人の評価」に関するナルホドな逸話が残っているので、ご紹介したい。


大休禅師のもとに来客があり、会話をするなかで客人が誰かを誉めるような言葉を口にすると、大休禅師は毎回こう訊ねたという。
「その素晴らしい方というのは、もう亡くなっていらっしゃるのかね?」
亡くなっていた場合は、それ以上何も言わない。しかし、
「ご健在の方ですよ」
とでも答えようものなら、大休禅師は必ずこう続けたという。
「亡くなっておらんのに、どうしてその方を誉めることができようか。これから先、その人がどう生きるかは誰にもわからん。悪事をなすことがあるかもしれん。一時の姿で人の評価は下せん


また逆に、客人が誰かを悪く言うようなことがあると、
「その方はもう亡くなっているのかね?」
と、やはり毎回問うたという。そして案の定、
「まだご存命の方ですが」
とでも答えようものなら、厳しく指摘をした。
「まだ健在であるのなら、簡単に悪い評価を下してはいかん。一時の行為について見聞きしただけで、その人物の善悪をすべて理解することなどできるはずもない。どれほどの悪人であっても、人には改心がある。善に目覚めることがある。だから、人の善し悪しなどということは、その者が亡くなってからでなければ評価することなどできんのだ


人が人に評価を下す。
その行為がすでに誉められたものではないのだと思うが、もしその人について何か言うのであれば、それはあくまでも1つの行為について語られるべきものであって、その人の人格について述べられたものではないということだろう。
だから人物に対する評価というのは、一生を生き切ってみなければわからない。
亡くなって、そこではじめて「あの人はこういう人だった」ということが言える
人は変わるのだ。


大休禅師のこの逸話を思い出すたび、私はとてもほっとする。
というのも、私自身、昔は本当に恥ずかしい失敗を何度もした人間だった。
「だった」などと言うと、今ではいかにもまともな人間であるかのような物言いになってしまうが、少なくとも昔よりかは幾分マシになった。
ただそれは、「良く」なったのではなく「悪くなくなった」というレベルの話で、つまりがマイナスをゼロにまで引き上げただけにすぎない。
そんなものだから、我が身のこととしてこの言葉が胸に響くのだ。
情けない生き方をしてきたとしても、それで今後の自分まで規定される道理はない。
過去は過去。今は今。合わせて自分である
自分とは、積み重ねたすべての総量であって、どこか一地点を指しているのではない。
だから人の評価など、簡単には下せない。
……ああ、よかった、ほっとする。


終わってみなければわからないというのは、何だってそうだろうが、たとえば野球だって同じだ。
3打席すべて空振り三振だったとしても、4打席目で満塁ホームランを打つかもしれない。
別に満塁ホームランでなくてヒットでいいのだが、終わってみなければ打率という総合評価は下せない。
3打席目までなら打率0だが、4打席目で2割5分になる。
0割と2割5分。
打率0割の打者と打率2割5分の打者は、本当は同一人物であるのに、ある一場面だけを切り抜いて評価してしまうことで、まったく別人のような印象となってしまう
正しさから離れてしまうのである。
やはり、終えてみてからでなければわからない人の評価を、終える前に下すべきではないのだろう。。