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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part②

正法眼蔵,仏性の巻

「仏性」巻の現代語訳と原文 Part②

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳2回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、初回を未読の方は下の記事からどうぞ。
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それではさっそく続きに入っていきたい。
道元禅師が言葉を尽くして説こうとしている「仏性」とは、一体何なのかについて。


4節

仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず、ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。

現代語訳

仏道を学ぶ者の多くは仏性という言葉を聞いて、仏教ではない他の者たちが言うところの「不滅の自我」のようなものを連想した。
仏性とは自分の中にある霊魂のようなものだろうと。
それは、彼らが仏性というものを知る人に出会ったことがなく、仏性について真剣に問うたことがなく、正しく導いてくれる師の教えを受けたことがないがゆえの誤りであった。


彼らは、人間が備えている意識のはたらきは、仏性というものがあるからこそ成り立つものだと考えた。
仏性によって人間は外界を知覚し、また知覚したと認識することができるのだと。


しかしそんなことを、一体誰が言ったというのだろうか。
仏性が知覚の主体であるなどということはない。
真実を悟った者たちを「覚者」と呼び、または「仏」と呼ぶことはあるが、仏性が知覚の主体ということはないのだ。


そもそも、悟った者を覚者や知者と呼ぶときの「覚」「知」という言葉が意味するものは、外界を感じ取る知覚の意味ではない。
心の意識を指しているのでもない。
あらゆるものが真理そのものであることを、はっきりと自覚することを意味している。

5節

往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏之與性、達彼達此(仏と性と、彼に達し、此に達す)なり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。悉有は百雜碎にあらず、悉有は一条鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、仏性と齊肩すべからず。

現代語訳

漢の時代から宋の時代にいたるまで、インドに赴いては仏教を学び、人に接しては教えを説いた僧侶は大勢いた。
しかしそのなかにも、仏性というものを意識のはたらきと考える者はいた。
憐れむべきことである。


仏道を学ぶという姿勢に疎かなところがあれば、何を学んだとしても不十分なもので終わってしまう。
誤りはそうした姿勢から生じたのだろう。
これから仏道を学ぼうとするものは、そのような心で仏法を学んではいけない。


仏性を学ぼうとしても、それは器官や脳によって知覚され認識されるような意識のはたらきに関するものではない。
だから知覚されるものから学ぼうとしても、仏性を学ぶことはできないのは当然と言える。
そうした知覚というものの本質を知って、人が想起する意識の本質をも知りなさい。


よいだろうか。仏性は「仏となる性質」ではない。
仏と性が分かれているのではない。
真理であるところの仏性と森羅万象は異なるものではなく、人が仏性としてあるとき、人は仏性にほかならないのである。
この真理をよくよく明らかにしなさい。


仏性はいつでも眼前にある。
目の前に広がる全世界が仏性にほかならないからだ。
だからその一切を細分化して考えるのは適切でない。
かといって、一切を1つの塊のように捉えるのもまた適切とは言えない。


仏性を見るとは、手を握って拳をつくるというような具体的なことであって、大小といった概念を頭で考えることではない。
知識でもって理解する対象ではないということである。
だから仏性を意識のはたらきだと思う者たちは、仏性を明らかにした覚者たちと肩を並べることはできない。
もちろん、互いの仏性を比べ合うことなどできようはずもない。

6節

ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条条の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。

現代語訳

一部に、仏性を草木の種のようなものだと考える人々がいる。
大地を潤す雨のほうに、教えの雨を受けて仏の芽が出て、茎が伸び、枝葉を茂らせて花や果を結ぶ。
そうして果実のなかに種子が宿る。
人が成長するなかでやがてその人に宿るもの、それが仏性であると。


このような見解は、やはり凡夫の考えであると言わざるをえない。
しかしながら、種子は種子で1つの真理を物語り、花果は花果で1つの真理を物語っていると見るなら、この見解はまったく無意味なのでもない。


果実のなかに種子はある。
種子の姿は見えないが、根や茎などを生じさせるものになっているのは種子にほかならない。
枝葉を寄せ集めくっつけるなどして樹は成長するわけではなく、内側からの力によってのみ成長するのでもなく、外部からの力によってのみ成長しているのでもない。
古今にわたって、樹を支えるあらゆる要素との関わりによって、刹那の生滅変化を繰り返すことで樹は成長している
人間の体を構築している細胞が、刻々と死に、生まれ、変わり続けていくことで変わらずに見えるのと同じことである。


そうであるから、一応はこの凡夫の見解にも意義はある。
根も茎も枝も葉も、瞬時に生じては瞬時に滅するという在り方をしており、そのすべてが悉く仏性なのであると観るならば


7節

仏の言く。仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。
いま「仏性義をしらんとおもはば」といふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの説、行、証、忘、錯、不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり、拂子拄杖等をもて相観するなり。さらに有漏智、無漏智、本覚、始覚、無覚、正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。
当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁聻なり、超越因縁なり。仏性聻なり、脱体仏性なり。仏仏聻なり、性性聻なり。

現代語訳

お釈迦様は次の言葉を残している。
「仏性の何たるかを知ろうを思うならば、時節の縁をよく観なさい。時節に至れば、仏性はすぐに実現される」
と。


ここでいう「仏性の何たるかを知ろうと思うならば」という言葉は、なにも「知る」ことだけに限った話ではない。
仏性を行じようと思うなら、仏性を証明しようと思うなら、仏性を説こうと思うなら、あるいは仏性に執着することを忘れようと思うならと、それらすべてに通じる話である。
それらすべては「時節の縁」に因って、まさしく眼前に実現される。


時節の縁を観るためには、まさに時節の縁そのものを観るよりほかに方法はない。
特別なものを観ようとするのではなく、身近な、日常生活に時節の縁を観なさい


ただし観ると言っても、それは煩悩によって観るのではなく、煩悩の滅した智慧で観るのでもなく、悟りの智慧で観るのでもない。
まさに観る」のでなければ真実でない。
「まさに観る」とは、観る観られるというような自他を立てず、正しく観る誤って観るといった判断にも関わらない。
ただただ、それ自体をありのままに観ることだけを「まさに観る」と言う。


だから、ただ時節を観るというときには、自分が観るということはないのだ。
誰が観るということも、誰が観られるということもない。
そこにはただ時節の縁しかない。
仏性、ただそれだけなのである。すべてが仏性であるとは、ただ、そこにある仏性を観るというだけのことである


仏というとき、それは仏以外の何者でもなく、性というとき、それは性以外の何ものでもないように、まさに仏性そのものを観て、仏性という意識から脱しなさい

8節

時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、辨道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。いはゆる欲知仏性義は、たとへば当知仏性義といふなり。当観時節因縁といふは、当知時節因縁といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来なり。しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至は、既至といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰なり、おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。

現代語訳

時節にもし至ったなら」という言葉を、古来多くの人々は次のように解釈した。
「時がくれば仏性が現れるだろうから、時がくるのを待てばいい」
「自然に生活していれば、やがてその時がやってきて仏性が現れる」
「もしその時がやってこなければ、いくら師から教えを受け、修行に精を出していても仏性が現れることはない」
と。


仏性というものをそのように考えて、無益な時間を過ごし、世俗の生活を送ってきた者は多い。
夜空を見上げ星を眺めて、ただ虚しい時を過ごしてきたのだ。
このように考え行動する人々は、すべて運命は自然の運行とともにあり、修行といった生き方を否定する思想家の部類に属する。
それは、仏教ではない。


先に「仏性の何たるかを知ろうと思うならば」と言ったが、それは「仏性の何たるかを知る時」と言い換えることができる。
知ろうと思うとき、人はそれを知る。
同様に、「時節の縁を観る」とは「時節の縁を知る時」のことである。
「仏性の何たるかを知ろうと思う時」、それがまさに「時節の縁」そのものなのである。


だから、「時節にもし至ったなら」というお釈迦様の言葉は、「まさに今、時節に至っている」ということと同義と言えるだろう。
そこに疑いをはさむ余地はない。
志したとき、すでに時節に至っていることの真実を疑うならば、真実であるところの仏性を私に返してもらいたいくらいだ。


知りなさい。
「時節にもし至ったなら」は「まさに今、時節に至っている」ことであるのだから、今この時間を無駄にするような生き方はすべきでないと。
四六時中、時間を疎かにすべきではないと。


「時節にもし至ったなら」という至言を表面的に解釈し、「ただその時を待つ」と考えるというのであれば、それは「仏性に至る時は永遠にやってこない」と言っているようなものだ。
だから、よいだろうか、「時節に至る」とはすなわち、その瞬間にもう仏性は現前にあらわれているということにほかならない。
いわゆる、「その理おのずから明らかなり」という言のとおりである。


「その時がやってこない」ということは、端的に言ってありえない
したがって「仏性が現前しない」ということもまた、同様にありえない。

9節

第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために仏性海をとくにいはく、
「山河大地皆依って建立し、三昧六通茲に由って発現す」
しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜をみるなり。皆依は全依なり、依全なりと会取し不会取するなり。
三昧六通由茲発現。しるべし、諸三昧の発現来現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。六神通はただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。しかあれば、六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罣礙するものなり。

現代語訳

お釈迦様から数えて12代目の祖にあたる馬鳴尊者は、のちに13代目の祖となる自分の弟子に対して、仏性が広大無辺なものであることを伝えるため「仏性海」の教えを説いた。
すなわち、
山や川や大地は皆仏性であり、それぞれの姿でもって世界に存在している。瞑想といった精神的なものもまた、仏性のあらわれの1つである
と。


そうであるからこの大自然のすべて、1つとして仏性でないものはない。
あたかも広大な海のごとく、仏性がどこまでも広がっている。
そうした真実の目で見た世界を、仏性海とよぶ。


仏性として存在している全世界は、存在しているそのとき、山や河や大地といったそれぞれの姿でもって仏性をあらわす。
それが仏性海の形というものである。
仏性の本当の姿は何だとか、外にあらわれる姿は何だとか、その中間の関係は何だとか、そんなことはまったく問題とするものではない。


そのようにして世界を眺めたとき、人は世界を仏性と観ることができるだろう
だから仏性を観るとは、何も特別なものを観るのではない
驢馬の顎や、馬の口といった、ありふれたものに仏性を観るのである。
すべてが仏性であると理解すべきだが、理解しようと務めても頭で理解できるようなものではないのだ。
やはりそれは、「仏性として観る」という具体的な体験以外に知りようのないことである。


瞑想といった精神状態も仏性のあらわれであり、精神のはたらきもまた仏性のあらわれ。
あるいは六神通といったはたらきも仏性のあらわれであるが、それは阿含経典にあるような不可思議な力のことではない。
「六」を「6つ」という数と受け取るのではなく、あらゆるはたらきの象徴としての「六」であると受け取りなさい。


六神通が仏性であるからといって、六神通にこだわる必要はない。
六神通に対してどうこう言っているこのことが、すでに仏性海のただ中での行いなのだ。
だから六神通という言葉に執着すれば、仏性海を覆い隠す妨げとなるだろう。


※つづく