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【盤珪永琢】 読後に、思わず「なるほどねぇ」と唸る禅僧の逸話 

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【盤珪永琢】 読後に、思わず「なるほどねぇ」と唸る禅僧の逸話

江戸時代前期の禅僧に盤珪永琢(ばんけい・ようたく)がいる。
「不生禅(ふしょうぜん)」という教えを唱え、多くの人に仏法を説いた禅僧であり、逸話も多い。


ある日、この盤珪禅師のところへ一人の和尚が相談にやってきた。
「盤珪和尚さま、私は生まれつき短気なもので、自分でもこの性格にほとほと困っています。どうかこの短気を直す方法を教えてくださいませんか?」
短気を直してほしいとは、なかなか風変わりな相談である。
もしかしたら禅師を困らせてやろうという下心があったのかもしれない。
ただ、性格を直すいい方法があるのだとすれば、私もちょっと聞いてみたい。


そんな質問に盤珪禅師はこんな言葉を返した。
「ほぉ、そなたはなかなか面白いものを生まれ付き持っているのじゃなあ。どれ、その短気とやらを今ここで見せてはくれぬか?」
短気を見せてほしいとは、訪ねた和尚もまさかそのようなことを言われるとは思いも寄らなかったのではないか。
しかし見たいと言われても、さすがにいつもかも短気でいるわけではない。
「いえ、今は短気が出ておりませんので、見せることはできません。短気は何かあったときに急にひょっこりと顔を出すんです


それを聞いた盤珪は諭すようにたたみかけた。
「今はないというのなら、短気はそなたの性格ではないのだろう。
本当に短気という性格を持っているのなら、今ここで出せるはずじゃ。
訊くが、お主は短気というものがあたかも実際に存在するかのように思ってはおらんか?
気持ちというのは自分の心が起こすものであって、短気という心があるのではない。
怒りの心は、自分が可愛いから起こるんじゃ。
自分の望んだように物事が進まなかったり、自分を害されと感じたり、自分の身をひいきするところから怒りは起こる
それを生まれ付きなどといって、親のせいにするとは何事か。
自分の心の責任くらい自分で持たんか。
自分で自分の心がコントロールできず、挙げ句のはてにはその責任を親になすり付けるとは、親不孝も甚だしい。
親はそなたにまっさらな心を与えたというのに。
自分が可愛くて、自分を守りたくて怒りを外に向け、自分の欲に振り回されて、自分で自分を苦しめておる。
本来の心に立ち還ってみなされ。
今は短気を出せぬのじゃろう?
なぜ出せぬかわかるか?
そんなものははじめから存在しないからじゃ。
ありもしないものに惑わされるでないぞ……」


短気は生まれ付きのものではない
自分本位で物事を考え、振る舞い、その経験が蓄積されて、気に入らないと短気を起こす。
短気という実体があるのではないと自覚すれば、短気は自分が起こしているものであるという当たり前にも気付くだろう。
人はややもすると、自分の心の責任さえ他人に転嫁するような過ちを犯してしまうのである。

腹の立ち方に3種あり

ところで仏教には、腹を立てるということに関して人には3つのタイプがあるとする考え方がある。
そのタイプとは、次の3つである。

  • 岩に刻んだ文字のような人
  • 砂に書いた文字のような人
  • 水に書いた文字のような人

 

岩に刻んだ文字のような人とは、腹を立てたその怒りがまるで岩に刻まれた文字のようにいつまで経っても消えることがなく、延々とくすぶり続けている人。
砂に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りがある程度頭に記憶されるが、時間の経過とともに薄れていき、あたかも風に吹かれて消えていく砂の文字のように、やがて怒りが消滅する人。
水に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りにこだわりを持たない人。
人から馬鹿にされても、「何を言っているんだか」と呆れることのできる人。
怒りの本質は、自分を可愛がる気持ちにあることを知っている人。


私がこの考え方を面白いと思ったのは、この3タイプはいずれも腹を立てた後の「怒り」の変化を表しているのであって、誰もが腹を立てるということに関しては一緒なのだということだ。
腹を立てない人はいない
よく、修行をすれば腹を立てることもないというような、聖人のようなイメージを持たれることがあるが、そうではない。
腹は立つ。
ただ、立った腹がどう変化するかは、人によって違いがある。
水に書いた文字のような人であれとは、怒りという気持ちと無縁な人間になれと言っているのではない。
そんなありもしない理想を言っているのではなく、心のコントロールに責任を持てと言っているのである
自分の心に責任を持つことが、精神における子どもと大人の違いにほかならないからだ。