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「あみだくじ」の語源と阿弥陀如来 ~身近な仏教用語~

【あみだくじ】身近な仏教用語の意味


アタリ、ハズレ、あるいは順番などを決める際に便利な「あみだくじ」。
人数分の線を引けば必ず全員が別のゴールに行き着き、かつ「どこに行くかな~」と指で線をなぞるときのゲーム性を秘めたあみだくじは、盛り上がりと平等性と簡易性が相まって、年代を問わず広く人々に親しまれている最もポピュラーなくじの1つだ。


このあみだくじの線の引き方といえば、上から下に縦線を平行に人数分だけ引き、それぞれの縦線の間に任意で横線を足していくという手法が一般的。
ノコギリとカナヅチを使ったことのない素人が作った不格好な梯子みたいなものが横に連なる、あの定番の形である。


しかしこのような現代のあみだくじの形態は後世になって出現したものであることをご存じだろうか?
あみだくじが生まれた最初期、室町時代のあみだくじは、今とはちょっと異なった形をしていたと考えられているのである。


室町時代のあみだくじ


あみだくじが世間に流行したのは江戸時代末期だとされているが、その起源は室町時代にまで遡ることができる。
現代のあみだくじは上から下になぞっていく形態が一般的であるが、当時のあみだくじはちょっと違う形をしていた。
どう違うのかと言うと、縦線にあたる線が、放射状に引かれていたのである。


放射状に引かれた線の中心部分には金額が記されており、その金銭を当てるくじが最初期のあみだくじだったという。
つまりが、博打だ。


室町時代のあみだくじ
↑ 室町時代のあみだくじのイメージ
 顔のアイコンのある場所が10000円に行き着く


目で確認できないと実感が湧かないので、イメージ図を作ってみた。
放射線状の円形というだけで、くじを引く基本的なルールは通常のあみだくじ同じものとして、試しに一度やってみると……。
……やはり、予想を裏切らず、当たり前だが、全部別のゴールにたどり着くようになっている!


ただし、当時のあみだくじには横線に相当するものがなかったようで、選んだ縦線の先にそのまま自分のゴールがあったようだ
なので上の図は正確には間違い。
このような蜘蛛の巣状の複雑な線ではなく、最初期のあみだくじは放射状に広がる直線だけの単純なものであったらしい。

なぜ「あみだくじ」という名前なのか


博打の一種のくじとして生まれたあみだくじが、なぜ「あみだくじ」という名前になったのか。
その答えはあみだくじの形に隠されている。
現代のではなく、「昔のあみだくじの形」にである。


先ほどのイメージ図をもう一度よくご覧いただきたい。
中心から放射線状に伸びるいくつもの線……。
どこかで似たようなものを見たことが……あるような……ないような……。


ハッ! と気付かれた方は、もしかしたら仏像に詳しい方かもしれない。
そう、じつはあみだくじの「あみだ」とは、阿弥陀如来の「あみだ」のことなのである。


阿弥陀如来などの仏像の後ろには、なにやら放射状に伸びる線が付いていることが多い。
これは光背(こうはい)と呼ばれるもので、仏の威徳を象徴するものとして仏像の背後に作られている。
「後光が差す」というときの、あの「後光」を具現化したものだ。


光背は線に限らず、円であったり、炎のような形をしていたりと、それぞれの仏の性格を表すように形作られている。
忿怒の顔で睨み立つ不動明王などの背後にはメラメラと燃えている炎のようなものがあるが、あれも光背の一種。


ちなみに阿弥陀如来の光背は48本の放射線で表現されることがあるが、これは阿弥陀仏がまだ法蔵(ほうぞう)という名前の修行僧であった時代に、48の誓願を立てたことにちなんだもの。


それで、あみだくじが生まれた当時、人々はこのくじの形を見て思ったわけだ。
この形、何かに似ているぞ……あっ、あれだ、仏様の後ろにあるやつだ!


ということで「阿弥陀如来の光背に似たくじ」だったものだから「あみだくじ」と命名された
だから「あみだくじ」を漢字で書くと「阿弥陀籤」となる。


ちなみにうちの寺には阿弥陀如来は祀られていないが、地蔵菩薩がいらっしゃって、あみだくじの説明をするにはちょうどよい光背をお持ちなので、ちょっと撮影をさせていただいた。


地蔵菩薩の光背


いかがだろうか。
放射線状に広がる光背。
これぞまさにあみだくじの命名にいたった光背そのものである。


……まあ、正確には、これでは「じぞうくじ」になってしまうが……。

 阿弥陀籤の名前の由来は、阿弥陀如来の光背

あみだくじの変遷


当初、博打の一種のくじとして生まれたあみだくじであったが、時代とともにその性格は徐々に変化していった。
複数人での選択を平等に決めることができる方法というのは、それだけでいろいろと応用が利き重宝されたのだろう。
あみだくじはやがて、品物を分配する際や、仕事を割り振る際などにも活用されるようになっていった


また、異なる金額を当てるという意味では博打と同じでありながら、数人で何かを買う際に、それぞれが負担する金額を決める方法としても用いられたともいわれている。
ただのくじでは文句が出るかもしれないが、阿弥陀如来の光背に似た「あみだくじ」で決まったことであれば、阿弥陀如来の意図なるものが含まれているということで、すんなりと受け入れられたという側面もあったのかもしれない。


阿弥陀如来とは?


そもそも阿弥陀如来って、何? という方のために、簡単な阿弥陀如来の説明を。


日本などに根付いている大乗仏教では、ブッダ(釈迦如来)のほかにも多くの仏が信仰されている。
薬師如来、大日如来、観音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩、あるいは不動明王など。


それぞれの仏はそれぞれの仏国土に住んでいるという信仰があるが、そのなかで西方にある極楽浄土に住んでいるとされるのが阿弥陀如来である。
そしてこの阿弥陀如来を信仰するのが浄土信仰であり、浄土系の宗派がこれに該当する。


浄土信仰、すなわち阿弥陀如来への信仰を説いた経典はいくつもあり、それらを総称して「浄土経典」という。
この「浄土経典」のなかで、浄土教の大成者といわれる僧侶・善導(ぜんどう)が選んだ『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つは、浄土宗の開祖である法然によって「浄土三部経」と定められ、浄土系宗派の根本経典として非常に尊ばれている


ちなみに、日本における浄土系宗派には、浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などがある。
そういえばそんなようなこと歴史の授業で習ったな、という記憶のある方もいらっしゃるのではないか。


それから「阿弥陀」という言葉の意味であるが、これはサンスクリット語の「アミターユス」または「アミターバ」の音訳であり、意味はそれぞれ「無量の寿(命)」「無量の光」
阿弥陀如来の像には光背がつくことが多いが、それはこの「無量の光」という名前に関係がある。
つまりあの光背は光なのだ。


阿弥陀如来は、死後の魂を西方浄土へと導く存在である。
法蔵という名の修行僧であったころに立てた48の誓願の18番目に「極楽浄土に生まれたいと願うすべての衆生を救済する
という誓願があり、この阿弥陀如来の誓願を頼り、信仰するというのが、浄土真宗系の教えの根本にある。


非常に簡単な説明ではあるが、以上が阿弥陀如来に関する概要となる。


あみだくじ、博打、光背、誓願、そして人々の救済へ。
初期のあみだくじには、いわゆる「ハズレ」が存在しなかったという話を耳にしたことがある


もしかしたらそれは、すべての人々を救うという阿弥陀如来の誓願と関係があるのかもしれない。
誰もが西方浄土へのアタリを引けるのだという、阿弥陀如来の誓願と。
そんなことを考えるのも、また楽し。