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【山岡鉄舟】 - 禅における罰当たり - 禅僧の逸話 

山岡鉄舟

【山岡鉄舟】 禅における「罰当たり」の意味


山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)といえば、幕末を生きた剣術の達人であり、政治家としても手腕を振るった人物として有名。
ただ個人的な印象としては、「禅者」という言葉がぴったりだと感じられる。


鉄舟という名前は本名ではなく居士号だが、そこに一抹の違和感も覚えない。
居士というのは、在家者でありながらも仏法の玄奥を摑んだ人物に授けられる称号のようなものである。
まさに鉄舟のような人物を指す。


現代で居士号というと、寺院に対して多大な功績を残した人物に贈られる名誉の称号という意味合いが強いが、本来の意味を鑑みればそれは少し異なる。
禅なら禅に対して、あくまでもその見識の深さに基づいて授けられるのが居士号であると考えたほうが適当だろう。


鉄舟は禅僧ではないため、禅僧の一人として紹介をさせていただくのは誤りであるが、秀でた居士は禅僧をもしのぐほどの力量を保持していたと言われており、鉄舟もその一人であることは間違いない。
逸話も多い人物なので、やはり「禅僧の逸話」のカテゴリーの1つとして紹介させていただきたい。


鳥居に小便


ある日、鉄舟が指南役を務める道場の門弟が、鉄舟にこんなことを言った。


「私はこの道場に通う道すがら、お宮の鳥居に小便をひっかけてくることがあります。
しかし一度も罰のようなものが当ったことがありません
悪いことをすると罰が当たるなんてのは、あれは真っ赤な嘘なんでしょうね」


すると鉄舟は大声を上げた。


「馬鹿者! お前はすでに罰が当っていることがわからんのか!」


門弟の話を聞いた鉄舟は、すぐさま門弟を一喝。
しかし門弟には、自分に罰が当たっているなどという自覚はまったくない。
悪いことなど何も起きていない。


鉄舟の言葉の意味がわからず、門弟は不思議そうな表情をするばかりである。
その様を見て、鉄舟は諭すように言葉を続けた。


「いいか、そこいらに小便をひっかけるなんてのは、獣のやることだ。
人であり武士であるはずのお前が、小便をひっかけて平気でいるのは、すでに心が人の心ではなく獣の心になってしまっているということだ。
それを罰と言わずして何と言う。


悪をなしながら悪に非ずと思い、平気で生きてしまっているということが、罰なんだぞ。
あとから罰が当たるのではない。
行為と同時に、罰は生じているんだ。
それをお前はまったくわかっておらん」


鉄舟は、鳥居に小便をひっかけて後から罰が当たるのではなく、小便をひっかけるという行いができてしまうような心になっていること、そしてその心に引きずられて生きていることが、すでに罰が当たっていることに他ならないと、その門弟に伝えたのであった。

因果の禅的な解釈


何らかの行いをすれば、それによって何らかの結果が生まれる。
それが因果の道理である。


結果はすぐにあらわれることもあれば、随分と経ってからあらわれることもある
ただ何よりもまず先に、その行いをしたという事実が結果として自分の中に蓄積されていくのが一番早い


鉄舟は、悪い行いをしたという事実が門弟の中に蓄積されていく罰も、悪い行いができてしまう罰も、罰に気がつかない罰も、見過ごすことはできなかったのだろう。
善い行いをしたから善い結果があるのではなく、善い行いができることがすでに善い結果なのである。
悪い行いをすれば罰があたるのではなく、悪い行いをしているそのこと自体が罰なのだ。


禅における罰とはそういった類いのものである。


人が人として生きることができなければ、それは確かに恐ろしい罰だろう。
事実の蓄積を侮っていると、手厳しいしっぺ返しをくらうことになりかねない。