禅語エッセイ
禅の教義を端的にあらわす禅語として、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉がある。「文字を立てない」と読むことができるが、これは「文字で真理を説くことはできない」「文字のなかに真理はない」というほどの意味である。 こう書くと文字の軽視と受け取…
木鶏子夜に鳴く ~本物の強さとは何か~ 木鶏とは、泰然自若とした境地、無心の境地こそ本物の強さだという意味を持つ言葉として広まることとなった。 これをもとに、宋代の禅僧である風穴延沼(ふうけつ・えんしょう)が放った言葉が「木鶏子夜に鳴く」であ…
風がやみ、木の葉が擦れ合うかすかな音さも聞こえない深い森。 その森から一羽のカラスが鳴き声を上げながら飛び立つ。 途端に静寂が破られて、辺りに鳴き声がこだまする。 カラスが次第に遠ざかるにつれて、鳴き声の余韻も散じるように空に消え入り、山は再…
、「八風吹けども動ぜず」とは、揺れた心がすぐにもとの座標、心の中心点に戻ってくることを言った禅の言葉なのだ。 嬉しければ嬉しいと感じ、心をもとにもどす。 悲しければ悲しみ、心をもとにもどす。 怒るときは怒り、心をもとにもどす。 いつまでも感情…
禅の世界には一字関(いちじかん)とか一転語(いってんご)とか呼ばれる特殊な言葉がある。 一字関(一転語)とは、その一言でもって相手を真理に導く、気付かせる、悟らせるための言葉のこと。 それにはいくつかの種類がある。 なかでももっとも有名な一字…
善い人のそばにいれば、意識せずとも善い影響を受ける。 悪い人のそばにいれば、自ずと悪い方向へと流れていく。 先が見えないような濃い霧のなかを歩いていると、いつの間にか衣服が湿っているように、身を置く環境によって無意識のうちに受ける影響という…
仏教には七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)と呼ばれる短い偈文がある。七仏というのは仏教の創始者であるブッダ以前に存在したとされる6人の仏と、ブッダを足した7人の仏をいう。この7人の仏は過去七仏(かこしちぶつ)と称され、禅宗ではその名前を日々…
捨てる。すると軽やかに生きられる。放下着とはそんな意味の禅語である。 「着」という字は前の言葉の意味を強める助字なので、その字自体に意味はない。 現代でいえば「!」に相当する文字。 つまり「放下」を強める働きをする字なので、放下着という禅語の…
慈眼という禅語がある。 この禅語を頭に想い浮かべるとき、私はどこかの書家が言ったという次の言葉を想起する。 「人が書く字には必ず良いところがある。 どんな字にも良いところが必ずある 子どもであっても、大人であっても、それぞれに良さがある。 たと…
禅では、色眼鏡をはずせということを言う。 色眼鏡とは少々古風な言い方で、これはつまりサングラスのこと。 あれをかけて辺りを眺めると、風景の色合いがまるで違ってくるから面白い。 赤色の眼鏡をかければ、透明な水も赤く見える。 緑色の眼鏡なら、砂漠…
たとえば、こんなようなことを考える人がいたとする。 あっちの人は若くして亡くなったから不幸で、こっちの人は100歳まで生きたから幸せ者だった。 隣の家は高級車に乗っているから幸せで、向かいは車がないから不幸なもんだ。 あの家では牛肉を食べている…
「禅」という言葉の語源は、インドのサンスクリット語の「ジャーナ」。 意味は、「心を整える」。 けれども心を整えようとするとき、心を整えようとは考えないのが、禅における心の整え方。 「……? 何をわけのわからないことを言っているんだ?」 きっと、意…
【禅語】一日作さざれば一日食らわず(いちじつなさざれば いちじつくらわず) インドにおける仏教、いわゆる初期仏教では、僧侶は自ら食べ物を生産することが戒律で固く禁じられていた。 そのため僧侶らは畑を耕して作物を得ることはなく、食事はすべて人々…
「担板漢!」という禅語は、端的に言えば「バカ者!」というほどの意味。 禅では昔からこのような言葉で修行僧を叱ることがあった。 しかし、不思議には感じないだろうか。どうして「板を担ぐ漢(おとこ)」がお叱りの言葉なのかと。 板を担いだって、別にバ…
意見が衝突したとき、よく起こりはしないだろうか。 「どちらの意見が正しいか」論争。 しかしそれは、問題の解決方法として必ずしも正しいやり方であるとは言い難い。 いかなる場合においても正しい解決方法となるのは「正しい答えとは何か」を考えること。…
ブッダは、悟った人物とそうでない人物の違い、つまり聖者と凡夫の違いについて、矢を用いた喩え話で説明をされたことがあった。 それが、「第一の矢と第二の矢」の話だ。 たとえば、美味しい料理を食べたとする。 その時に抱く「美味しい」という感覚は、悟…
同事という禅語がある。 「事を同じくする」と書いて同事と読む。 「事を同じくする」とは、違わないということ。 違わないとは、相手の立場に立つこと。 この「相手の立場に立つ」ということの本質を見事に突いた、私の大好きな話があるので、まずはその話…
重い荷物を山のように積んだ帆船が港に入る。 そこで積荷をすべて下ろし、軽やかになった船は追風を帆に受けて颯爽と港を出て行く。 船上を吹き抜ける風さえもが、清々しく感じられるような情景。 心に溜め込んだ荷物を下ろすことができれば、心にもそんな清…
魚が水のなかを静かに泳ぐ。 すると水が揺れて、底の土が僅かに舞う。 だから魚の姿が見えなくても、土でかすかに濁った水があれば、その場に魚がいたことがわかってしまう。 事実は消せないという意味の禅語である。 世に悪事は絶えない。 欲望は底が知れな…
分別がないようではいけない。 分別ある人間でありなさい。 普通、人はそう言うだろう。 こういう場合はこうしたほうがいい。 あの場合はああしたほうがいい。 そういった思慮判断ができる人間であれという意味である。 しかし禅語では、むしろ人は無分別で…
秋。 山の木々が色づきを増し、ドングリなどの木の実が落ち、賑やかな装いとなる季節。 各地にある紅葉スポットには多くの観光客が足を向けていることだろう。 やがて散りゆくその前に、美しく身を色づかせる木々。 人に誉められたくて紅葉するわけではない…
長い長い竿(さお)のてっぺん。 もうこれ以上先がないというところまで上り詰めた。 自分が一番だ。わっはっは。 そんな時は驕るのではなく、「百尺竿頭に一歩を進む」。 百尺竿頭とは、30メートルもある長い竿の先端のこと。 転じて、修行を極めた境地を指…
「道」という言葉には、どこか深みを感じさせる響きがある。 人が歩く道。歩いてきた道。歩くべき道。 道とは人生の象徴なのだろう。 どこまで伸びているのかわからなくて、いろんな道が交差していて、多くの人が行き交う。 そんなところも、道と人生はよく…
ブッダに死期がせまったとき、その周囲には多くの弟子たちが集まっていたという。 そのなかの弟子の一人が、涙ながらにブッダに訊ねた。 「ブッダがお亡くなりになってしまったら、私たちは一体何を頼りに生きていけばよいというのですか」 嘆く弟子に対し、…
まだ小学生だった頃、雨が降りしきるなかを傘もささずに走り回って遊んだことが何度かあった。 どうしても雨に打たれる感触を味わいたくて、親に頼んで外に出してもらったのだ。 びしょ濡れになるからやめてと普通親は嫌がることが多いのだろうが、うちの親…
規矩(きく)とは規則のことで、現代でいうマニュアルのこと。 つまり「規矩行い尽くすべからず」とは、すべてをマニュアルで定めてしまってはいけない、あるいは、マニュアルどおりの行動ばかりではいけない、という意味の禅語となる。 なんだか現代社会に…
ちょっと変わっている。 そんな人に対して、「個性的」という言葉が使われることがある。 個性的な髪型、服装、生き方――。 一握りの称賛と、一抹の拒否と、大多数の驚きで構成された、不思議なニュアンスの言葉だ。 そんな個性的という言葉に関する、ちょっ…
雪の降りしきる真冬の池を鴨が悠々と泳いでいる、あの信じられない光景を目にしたことがあるだろうか。 人があの真似をしたら、寒さで凍え死んでしまってもおかしくない。 見ているこちらが心配になってしまうような光景であるが、鴨にとってはそんな心配は…
自分の仕事は自分で行う。 それは当たり前のことであるが、その当たり前を主題にした禅語がある。 「他は是れ我にあらず」 鎌倉時代に日本から中国へ海を渡った道元禅師(どうげんぜんじ)が、留学先の寺院で出会った禅語である。 ある時、道元は寺の廊下を…
禅宗の一宗派である曹洞宗には、 「威儀即仏法 作法是宗旨」(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし) という金科玉条がある。 日本曹洞宗の開祖である道元禅師の言葉だ。 曹洞宗の教義を一言で示すものとして、この言葉は非常に重んじられている。