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【禅語】紅炉上一点の雪  ~燃える心に誘惑は近づけない~

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【禅語】紅炉上一点の雪 (こうろじょう いってんのゆき)

赤々と燃えるストーブの上に、ふわりと雪が舞い落ちてきた。
けれどもストーブに触れた瞬間、雪は溶けて水になり、瞬く間に蒸発して消えてしまう。
炎を前にして、雪は為す術もなく消えさっていく。
炎は雪の存在に気付くことすらなく、自分が燃えることだけに専念している。
そんな情景をありありとイメージしてしまう禅語、「紅炉上一点の雪」。



紅炉とは、勢いよく燃える炎によって赤々と熱くなったストーブのこと。
その上に落ちてくる一片の雪は煩悩や誘惑を意味しており、心を燃やして修行に専念していれば、煩悩が近づいてきても自ずと消滅していくものだと、この禅語は言っているわけである。


誘惑を意図的に回避しようとするのは、たとえそれが回避を目的としたものであっても、やはり誘惑を意識してしまっていることに変わりはない。
そうではなくて、回避することに努めるのではなく、今やるべきことに没頭すればいいのだという発想と受け取ることもできるだろう。
集中して物事に取り組んでいる時、人は誘惑のことなんか忘れてしまっている。


いかにも禅的な発想だなあと感じる言葉であるが、捉え方によっては我々の生活にも十分応用できる発想といえるかもしれない。


たとえば幼児が指しゃぶりをするのが癖になっていて、どうにか止めさせたいと思っても、まだ言葉を理解しないような幼児なものだから困っていたとする。
言葉を理解するのであれば、注意を続けておしゃぶりをやめさせることもできるかもしれないが、そんなオトナな対応はまだできない。


そんなとき、両手を使った遊びをさせてみると、そのときはおしゃぶりをしなくなることがある。
新聞紙をビリビリ破るとか、なんでもいいが、とにかく両手を使う遊びを提供する。
これもつまりは、おしゃぶりを止めさせようという発想ではなく、両手を使う遊びに没頭させることによって、誘惑の親指を忘れ去らせる方法といえるだろう。


なんというのか、マイナスを避けようと考えるのではなく、プラスだけを行じるというようなニュアンスに近い発想。


心を集中させて何かに専念しているとき、雑念が入り込む余地がそもそもないという体験をしたことがある人は、おそらく大勢いることと思う。
特にスポーツの試合などで非常に集中しているときなど、周囲の声や音が聞えなくなるほどに心が集中・統一されることがある。
無我の境地、といってしまってよいものかどうかわからないが、それに近い精神状態が生まれ、雑念など生じるはずもないという状態に身を置くことは訓練次第で誰にでも可能なのである。


ただまあ実際問題として、スポーツ時の精神状態を日常的に作り出すのは困難でもある。
しかし方向としてはそのような状態を目指して行動することは、非常に重要。
「攻めは最大の防御」という格言にもあるように、誘惑を防ぐのではなく、没頭という攻めに出ることで誘惑を寄せ付けない状態を作りだしてしまえばいいのだ。


一心不乱とはまさにそうした状態を指す四字熟語で、一心であるから自ずと不乱にもなる。
一心であることと不乱であることを両立しようと努めるのではなく、一心であることだけに専念すれば、自ずと不乱にもなっているのだ


そういえば以前、本を読んでいて面白い話を知った。
死んだらどうなるか」という質問に対する、ある僧侶の回答である。以下のような趣旨だった。


「お前さん、よほどの暇人と見える。
もし死んでからどうなるかを考える暇があったら、死んでからどうなってもよい覚悟をさない。

昔から、死んだ後に地獄があるの極楽があるとのいう話はあるが、この世で善いことをした者が地獄に堕ち、悪いことをした者が極楽に行くという教えは1つもない。

死んでからどうなるのかを考えるよりは、現在この世において、仰いで天に恥じず、伏して地に恥じず、どこから見られても恥ずかしくない立派な行いをしていれば、もし死んで地獄に行ったとしても、閻魔さんを相手に控訴すればよい。

それだけの自信があれば、死後どうなってもよいではないか」


この回答も、発想としては善い(プラス)ことに専念すればそれでよいということだろう。
確かに閻魔様に控訴するだけの自信があれば、地獄に堕ちる不安などないように思う。


燃えている心に雪が近づくことができないように、ただ信念の火を灯し続けることだけに力を注げば、それで万事良い。
それが禅語、「紅炉上一点の雪」。


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